第12話『帝国の闇と帰らない猫』
いつもより静かな屋敷。
普段なら、ニアの騒がしい声がどこからともなく聞こえてくるのだけど、今日はそれが嘘のように静まり返っていた。
今日はニアがお休みの日。
普段は特にどこかへ出かけることもない彼女だが、今日は珍しく早朝から出かけていった。
なんでもローエンブルクへ向かうとか。
あの街といえば、彼女が少々悪さをしていた街である。そんな街へ向かった理由は、聞かなくても察しがつく。
普段は明るい彼女だが、ふとした瞬間、罪悪感を背負ったようにどこか思い詰めた表情を見せることもあった。
きっと、彼女なりのケジメをつけに行ったに違いない。
だからこそ、僕はあえて彼女を一人で送り出した。
僕が一緒に行けば、きっと彼女はどこかで強がってしまうから。
僕はエリーゼの淹れた紅茶を一口含み、口の中で軽く転がしてから飲み込み、鼻へと抜ける香りを楽しむ。
なんとも心地よい時間だ。
久しぶりの静寂と相まって、紅茶の香りに心が落ち着く。悪くはない。
けれど、最近の騒がしさに慣れすぎてしまっていたのか、静かなら静かで、どこか胸にぽっかりと穴が空いたような妙な寂しさも、少しだけ感じてしまう。
まぁ、それもニアが帰ってくれば、いつもの日常に戻るのだから――今はこの静けさを楽しんでおくのも悪くないはずだ。
そう自分に言い聞かせるように、僕は残り少ないティーカップの紅茶を飲み干した。
それに――ニアが帰ってくる前に、済ませておかなければならないこともあるのだ。
コンコン。
タイミングよく、僕の部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
そう言うと、ゆっくりと扉が開いた。
「用があると聞いて来たが……。」
そう言って現れたのはセラ。
ニアが帰ってくる前に、どうしても彼女に聞いておきたいことがあったので、時間ができたら僕の部屋に来るよう、呼んでおいたのだ。
「実は……」
僕は、最近各国でノルザーク帝国の残党による犯罪行為が問題になっていること、そして我がグランヘルム王国でも、その対応に追われているという話をセラに説明した。
さらに――ニアの村を襲った者たちが、帝国の残党である可能性があることも――。
「……なるほど。だからニアがいない日に私を呼んだわけか」
聞き終えたセラは腕を組みながら、静かに言った。
セラの言う通り、ニアのいる場所では、この話題はできるだけ避けたいと思っていた。
最近の彼女は、以前にも増して毎日楽しそうにしている。そんな彼女の前で、過去を思い出させるような話を持ち出すのは、僕としても気が進まなかったのだ。
セラは何かを思い返すように視線を落とし、やがて小さく息を吐く。
「……私は、追放されたというより“逃亡犯”と言ったほうが近い立場だ。帝国を出てからは、追手を避けて各地を転々としていた。その後は大森林に逃げ込み、以降の帝国の動きについては、正直あまり把握していない。すまないが、あまり力にはなれそうにない」
わずかに申し訳なさを滲ませた声音。
彼女の状況は理解している。
だから、その答え自体は僕の想定の範囲内だった。
「……そうだよね」
それでも――ほんの少しでも、何か手がかりが得られないかと期待していたのも事実だ。
声に滲んだ落胆までは、隠しきれなかった。
そんな僕の様子を見て、セラは顎に手を当て、わずかに考え込む。
やがて、言葉を選ぶように口を開いた。
「だが……帝国の“その後”については分からないが、以前の帝国の話ならできる」
思わず顔を上げ、机に身を乗り出す。
「どんな些細なことでも構いません。教えてください」
セラは一度だけ視線を落とし、ゆっくりと顔を上げて、まっすぐ僕を見据えた。
「帝国は軍事国家だ。部隊も多く、方針もそれぞれ違う。私がいた騎士団は主に治安維持が任務だった。まともな者たちばかりで、無益な殺戮など考えられない」
セラは一瞬だけ言葉を切った。
「――だが、戦争が激化するにつれて、帝国内の空気も変わっていった。私たちもやがて戦場へ駆り出されるようになった。そして、その過程で……知ってしまった」
「帝国の中に、ある“部隊”が存在することをな」
そのとき、セラの瞳に、はっきりと怒りが浮かんだ。
「ある……部隊?」
「ああ。焼き討ち、略奪、捕虜の虐殺……正規軍とは思えない行為を、まるで楽しむように実行していた連中だ」
戦争にもルールがある。
そのような非道は、本来なら許されるものではない。
セラの表情が、それを雄弁に物語っていた。
「そんな部隊が、ニアの村を襲った……と?」
「断定はできない。だが、もし奴らがその後も野放しになっているのだとすれば……あり得ない話ではない」
確かに、そんな連中であれば、獣人の村を襲うことに躊躇などしないだろう。
金のためなら、どんなことでもやるはずだ。
だとすれば――ここ最近、我が国でも騒がれているノルザーク帝国の残党も、その連中である可能性があるのかもしれない。
そう考えた、そのとき。
コンコン。
「ご主人様」
柔らかな声とともに、扉の隙間から顔を覗かせたのはプルメアだった。
「どうしたの?」
僕とセラが同時に顔を向ける。
プルメアは少し言いにくそうに視線を揺らし――
「あの……ニアさんが……まだ帰ってきていないんです」
「え?」
反射的に立ち上がり、窓の外へ目を向ける。
空はすでに沈みきり、街は夜に呑まれかけていた。
「確かに、遅いけど……」
ニアは夕刻には戻る予定だった。そのため、最終の乗り合い馬車に間に合うよう、早朝――まだ暗いうちから出発している。
予定通り、それに乗っているなら――
「乗り合い馬車が遅れているだけじゃないかな?」
最終便が遅れること自体は珍しくない。
だから――心配するほどじゃないはずだ。
「ですが……その最終便は、すでに到着しています」
一瞬、呼吸が止まる。
「……ニアさんは、乗っていませんでした」
「……え?」
その言葉に、胸がざわつく。
普通に考えれば――乗り遅れただけのはずだ。
最終便を逃したとしても、宿を取って一晩過ごせばいい。
ニアなら、それくらいの判断はできるはずだ。
何も心配することはない。
……そう、分かっている。
頭では、分かっているのに。
胸の奥に引っかかるこの違和感が、どうしても消えない。
プルメアの顔を見ると、彼女もどこか不安げな表情を浮かべていた。
きっと、同じように嫌な予感を覚えているのだろう。
もし――
あの街で、過去と向き合おうとしている最中に、
何かに巻き込まれていたとしたら。
あるいは――
最悪の想像が、次々と頭をよぎる。
……駄目だ。
このまま待つなんて、できるはずがない。
「……探しに行こう」
気づけば、口にしていた。
最終便に乗れていない以上、ニアはまだローエンブルクにいる。
なら、今から向かっても入れ違いにはならないはずだ。
「待て。今から馬車で向かっても、到着するのは真夜中だ。ここは明日まで――」
セラが制するように言うが、
「……大丈夫。そんなに時間はかからないから」
その言葉を、遮るように返す。
「どういう意味だ?」
セラの視線が鋭くなる。
隣でプルメアも小さく首を傾げた。
二人にはまだ見せていない、僕の魔法。
僕は静かに手をかざし、目を閉じる。
ローエンブルクの街並み。
石畳の通り、建物の配置、空気の感触――
記憶をなぞるように、座標を定める。
やがて、三人の足元に淡い光が広がった。
「……これは」
「大丈夫。動かないで」
困惑する二人をよそに、魔法陣は静かに輝きを増していく。
「空間転移」
僕の詠唱と同時に、光が一気に膨れ上がり、僕たちの身体を包み込んだ。
視界のすべてが白に染まっていく中で、はやる気持ちを押し込みながら、ただニアの無事を祈り続けた。




