雨上がり水槽〈7〉
日没が間近だった。
見上げる夕焼けが奇怪だ、悍しいと作蔵は鳥肌を立てた。
例えるならば、すべてが焼き付くされている。
燻る、焦げる、灰になる。そして、なにも残らない。
光景が、影絵のように漆黒に染まる最中だったーー。
***
作蔵は待っていた。
長治郎と守生が『依頼主』を連れて来るのを“雨上がり水槽”の畔で待っていた。
ーーくっくっくっ。怖じ気付いて、来るのを拒んでいるのかのう。
象の嘲笑いが燗に障ると、作蔵は苛立つ。怒りはおさまらず、晴らす方法として象の咽の奧を結ぶ襷を、まっすぐと端を握りしめて張った。
ーーんが、くっ。がはっ!
象は咽の奧が引っ張られる痛みに藻掻くをして、さらに噎せた。
確かな証拠はない。今取り抑えている象が『依頼主』と関わりがあるとは、はっきりとしていない。
わかっているのは『依頼主』の為に子どもが身をもって行動を起こした。
信頼、友情。
強い絆が子どもふたりの原動力。薄弱になりつつある、価値観が息吹いていた。
作蔵は、応えたかった。
勇猛果敢に挑む子どもふたりの為に、怯むはしない。怖じけるもしない。
作蔵は象を取り抑えながら、己に課せられた“生業”が何の為にだと、想うことで確認をした。
「あんちゃんっ! 先生を連れてきたぞ」
作蔵は、子どもの声ではっと、我に返る。
振り向く先に、子どもに手を繋がれた女性がいた。
「あんたが『佐原先生』だな?」
作蔵が訊ねると、女性は黙って頷いた。
作蔵は一度も『依頼主』とは会っていなかった。何故そうだったのか、それは伊和奈が『依頼主』と会っていたからであった。
伊和奈が『仕事』に於ての見たこと、聞いたことは作蔵も見て、聞いたになる。
伊和奈が見たことを心で形に、聞いたことを音として捉える。
作蔵の『仕事』での“力”のひとつは、伊和奈と波長を繋げる。
伊和奈の見て、聞くを作蔵が同調して『仕事』の段取りをくむ。そして、遂行するのであった。
「いい子だ。おまえたちは家に帰って『ただいま』をするのだ」
「いや、それはまだできない。な、守生」
「はあ?」と、作蔵は口をぽかりとひらいた。
「お兄さんが先生のことを本当に助けるところを見る。先生が助けて欲しいのが何かを、ぼくらも知りたい。だよね、長治郎」
作蔵は、立て続けにいうふたりへ切り返す言葉が出てこなかった。
「ずっと走って来たのでしょう。ふたりとも汗だくで、息もあがってました。驚くとか、ふたりが私の前にいる理由を訊く暇なんてなく、長治郎くんと守生くんは私を此所に連れて来たのでした」
長治郎に手を繋がれたままの『依頼主』は、蚊が鳴くようなか細い声だった。
それでも作蔵は、言葉のひとつひとつを聞き逃すはしなかった。
「あんたが此所に“器”を残したと、はっきりと言っていたのは守生だ」
「そうですか。だから、なのですね。私を助けたくて、守生くんはーー」
『依頼主』は守生の手を両手で包むがすっ、と、すり抜けてしまい、堪らず涙ぐむのであった。
「守生、先生の手を握ってやれよ」と、長治郎は手袋を外して、守生に差し出した。
「……。うん」
守生は考え込むが、暫くすると長治郎から受け取った手袋を填める。
そして、守生は『依頼主』と手を繋いだ。
「そろそろ、本当のことを話してくれるかい?」
作蔵は、涙を溢す『依頼主』に訊いた。
「はい」
『依頼主』は頷いて、涙で濡れる頬を拭う。
作蔵は『依頼主』が見つめる先を、目で追う。
「間違いないのだな?」
「はい、これが“化け”に変わった私の“器”です」
「“器”に意思がある。長いこと“芯”が離れるとそうなっちまう。戻るとなれば、それ相当の覚悟をするようだぞ」
作蔵の促しに『依頼主』は口を閉ざしたままだった。
ーーふはは、黙ってるのは当然だろう。願っても叶わないと、おまえは此所に器を捨てた。わたしはおまえだ、今更ながらわたしがおまえに戻るはないのだ。
作蔵の顔付きが厳つくなった。
象の言うことを聞き逃さなかったと、作蔵は眉毛を吊り上げた。
「先生、さっき言ったことは撤回する。あんたは『叶えたいことが出来たから戻る』で、いいな?」
作蔵は、象の咽の奧に絡めている襷を引っ張ると、襷の端を『依頼主』へと翳した。
「これを、どうすればいいのですか?」
『依頼主』は困ったような顔を作蔵に見せた。
「“釣る”のだよ。あんたがあんたを、だっ! 長治郎、守生。おまえたちは“釣り”の手伝いをしてくれい」
歯を見せて笑みを湛える作蔵に、長治郎と守生はつられて笑顔になっていた。
「先生、自信を持つのだ。あんたが輝いて照らしていたと、ここにいる子ども達が証明した。俺も加勢するから、心置きなく戻るをするのだ」
『依頼主』は、作蔵が握りしめている襷の垂れる端に、恐る恐る指先を付ける。
「ありがとうございます。お名前は、何とお呼びしてよいのでしょうか?」
『依頼主』は安堵の息を吹き、襷の端を両手で強く握りしめた。
「作蔵だ。先生」
作蔵は長治郎と守生を手招きする。
「守生、先生の腕をしっかり握りしめとけよ」
「うん」
長治郎と守生は『依頼主』の後ろへと付き、守生は『依頼主』に、長治郎は守生にと、両手で腕を掴んでいた。
そして、最後尾に作蔵がいた。
“雨上がり水槽”の水面が、何処から照された白光に反射して煌めく。
「おーいっ! あんたら、そんなところにいたら危ないぞ」
作業着と反射ベスト。そして『安全第一』と記されたヘルメットを被る男が、作蔵たちへと注意を促した。
「おっちゃん、心配するな。石ころが飛んできても俺がしっかりとはね除けてやる。あ、悪いが照明の灯りを、こっちにもっと強めに照らしてくれい」
「馬鹿たれっ! あんたらの為に灯光機を使っているのではない」
「けち」
「文句を言うなっ!」
「あんちゃん、うるさい」
男と作蔵の言い合いに、長治郎は堪らず阻止をした。
「……。悪かったな、長治郎」
作蔵は、軽く咳払いをした。
ーー『蓋閉め』よ、おまえはわたしを“釣る”と、言ったな? ご覧のとおり、わたしの象は巨大だ。
「だから、何だよ」
ーーわたしの重みに引き摺られて、此所に沈む。勿論、わたしと童ふたり諸ともだ。
「つくづく、おまえは馬鹿だ」
作蔵はにやりと、笑みを湛えた。
「作蔵さん、援護をお願いします」
『依頼主』は襷の端を引っ張り、布地をまっすぐとさせる。
「守生っ!」
「うんっ! 長治郎」
長治郎と守生は、足元を踏ん張らせた。
「あのな、重いのはーー」
作蔵は頬に息を溜めて、一気に吐く。
ーー想いから生まれた“絆”だっ!!
“雨上がり水槽”から、水の生き物の象が水飛沫とともに、空中に跳ねあがった瞬間だったーー。