雨上がり水槽〈8〉
“雨上がり水槽”に潜む水の生き物の象は水面から跳ね上がる。
高く、高く。
夜の帳が降りかける地上が遠くなる。
水飛沫を撒き散らし、滴を地上に降らして象は空中に舞い上がった。
作蔵は目を凝らしていた。
象の表面に細かい裂け目が表れていると、目視をしていた。
象は叫ぶことも唸ることもせずに、空中で動きを止めていた。
北西よりの風が、象を扇ぐ。
象の表面の裂け目は非常に多いさまと、移り変わりが止まらない。
今が瞬間だと、作蔵は覚る。
「先生っ! 襷を強く引っ張れ」
作蔵は『依頼主』に合図を送る。
「はい」
『依頼主』は、作蔵へと受け答えをする。
襷の生地がまっすぐと張られる。
『依頼主』は足元を踏ん張らせ、力強く襷を手繰り寄せる。
固体が砕けるような音が空気を振動させ、地面までを揺らしていた。
象の型は、砕け散っていた。
玉子の殻が剥けるように、象の型は崩れていた。
崩れた、地上へと降り頻る象の破片を『依頼主』は浴びていた。
破片が『依頼主』にひとつひとつと、張り付いていた。
『依頼主』は全ての象の破片を身に纏う。
そして、陽のように眩しい光明を輝かせて夜空を朱色に染め、灯が消えるように漆黒へと色付かせた。
『依頼主』が“器”を取り戻した瞬間だったーー。
***
見上げる空は、澄んだ蒼。
鼻腔を擽らせるのは、甘く薫る風。
垂れる稲穂は、黄金色。
「作蔵、いい風が吹いているね。何処で金木犀が咲いているのかしら?」
「さあな、俺でもわからないさ」
作蔵と伊和奈は田園が広がる畦道を歩いていた。
「あんなに暑かったのが嘘みたいだよ」
伊和奈は笑いながら作蔵に言った。
「月見団子を食べそびれるほどだよな」
作蔵は畦道に転がる石に躓き、足首を捻った。
「あ、作蔵」と、伊和奈の顔色が曇った。
「うろたえるな、伊和奈」
作蔵は路にしゃがみこみ、足首を両手で擦っていた。
「うわっ! 腫れ上がってるじゃない。歩くの無理だよ」
「騒ぐな。どうってこと……。」
「作蔵、葉見整形外科で診てもらおう」
伊和奈は、足を引き摺る作蔵を支えながら畦道を歩くのであった。
【葉見整形外科】
伊和奈は待合室の長椅子に作蔵を座らせ、受付を済ませた。
作蔵はふて腐れていた。
滅多に身体の故障などしなかった作蔵にとっては、病院は嫌な場所だと顔をしかめていた。
「失礼いたします」と、診察室から出てきたのは、額に包帯を巻いた女性だった。
「あら? 佐原先生」
「まあ、伊和奈さん。それに、作蔵さんまでどうして此所に?」
伊和奈は女性と目が合い、女性も声を掛けたのであった。
「作蔵が足を怪我しちゃったの。だから、診察待ち。先生はどうして?」
「ご覧のとおり、額に3針縫う怪我を負ってしまって……。」
「“芯”でいた頃の感覚が残っていたのかしら? わたしも身に覚えがあるけれど、壁をすり抜けるつもりが激突したことがあったわ」
「鋭いですね。はい、お恥ずかしながらおっしゃるとおりです」
伊和奈と女性は、和気藹々と会話を弾ませた。
「随分と、気があってるな」と、作蔵がふたりの会話に割って入った。
「あらまあ、作蔵さんに退屈な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
「悪い意味で言ったのではないさ。ただ、心配なのはーー」
「私の不注意ですので、どうってことありませんわ」
「教え子たちに、包帯の理由をちゃんと説明出来るのかい?」
「学校行事での催し物で、これを活かせますわ」
受付から呼ばれた女性は会計を済ませ、処方箋を受け取ると診療所をあとにした。
「あはは、結構前向き」
「あんまり、笑えないぞ」
「作蔵、あんたは後ろ向きだね?」
「作蔵さん、どうぞ」
看護士が、診察室の扉を開いて作蔵を呼んだーー。
***
作蔵は、松葉杖をついていた。
「骨折とは、珍しい怪我をしたもんだね」
作蔵の褄先から膝の下まで、ギプスが覆い被せられていた。
「風呂、どうやって入ればいいのだよ」
「骨折箇所を湯槽に浸からせないならば、平気じゃないの? ポリ袋を履いて、浴槽の淵に足を掛けてーー」
伊和奈は頬を膨らませて「ふ」と、吹き出し笑いをした。
「伊和奈、何を想像した?」
作蔵は顎を突きだした。
「そういえば“雨上がり水槽”が見えたとか、ちっとも聞かなくなったね」
「切り返しやがったな」
「で、作蔵はどう思う?」
作蔵の先を歩いていた伊和奈が、振り向いて訊いた。
「見る必要がなくなった。ただ、それだけだ」
作蔵はつく松葉杖の先端で路に転がる小石を突き、水溜まりに填めたーー。




