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雨上がり水槽〈5〉

 人は皆、志しを胸に抱いて空を仰ぎ、哀しみに思いを馳せて土を踏みしめる。


 情に触れて汲み取り、生の照明にとすいを注ぎ込む。作蔵の“つられて、取りつかれる”物語は、源ーー。



 ***



 朝の四畳半で、作蔵は小鉢の中でかき混ぜて醤油を垂らした生卵を、丼に盛られて中心を窪ませた白米の上に掛ける。

 するする、ばくばく。と、作蔵は箸の先で丼の中身を口の中へと啜るように掻き込む。


「行ってくる」

 黄色の襷と朱色のティーシャツ。黒の七分丈ズボンで素足に一本歯下駄を履く作蔵は、玄関で見送る伊和奈に声を掛ける。



 気候は、残暑の快晴。


 作蔵は、更地にいた。

 かつては待ち合いに、安らぎに。そして糧をと、人が求めて集まっていた場所の跡地に作蔵はいた。

 敷地の印として、所々で土に刺さる角材と絡まって張られる縄が囲い。


 作蔵は、じっと見た。

 雑草が斑に生い茂る、広くて深さがある更地を見下ろしていた。


「ぼく、此所にあったお店で〈やりきり、いかさん〉を守生もりおくんに長治郎ちょうじろうくんと一緒に買って、芝刈しばかり公園で食べていたよ」


 作蔵の隣に、鞄を提げる少年がいた。


「お使いの帰りか?」

 作蔵は躊躇いなく、少年に声を掛けた。


「違うよ。ぼく、週に2回で算盤塾に通っているんだ。夏休みの間は、塾の時間は午前中なんだ」


「もう、終わったのか?」


「いいや、今からだよ。じゃあねっ!」

 少年は、作蔵に手を振って走り去ろうとしていた。


「待てっ! 少年」

 作蔵は、大声で少年を呼び止める。


「『蓋閉め』さん、ごめんなさい。ぼく、凄くいけないことを言ったから、怒ったのだよね?」

 少年はびくびくと、怯えながら作蔵に振り向いた。


「俺はそんなにショボい質じゃない。おまえの名前とおまえの友達についてちと、訊きたいからだ」


 少年の顔がぱっと、笑みで湛えられた。しかし、すぐに顔の笑みは消えた。


「ぼくは桃矢とうや。夏休み前、守生くんが学校に来なくなった。それから、長治郎も同じくだ」


 作蔵はぴくりと、目蓋を痙攣させた。


「頼む、そのまま話しをしてくれ」

 桃矢が黙ってしまったので、作蔵は穏やかな声色で促した。


「長治郎くんは、守生くんが“雨上がり水槽”を見たからと、決めつけた。だから、長治郎くんは守生くんを助ける為に“雨上がり水槽”を見ると決めた。ぼくは一生懸命長治郎くんを止めたけれど、怒られた」

 桃矢は鼻の頭を真っ赤にさせて、声を震えさせていた。


「桃矢、おまえが長治郎を止めるをしたのは正しかった。おまえまで守生の為に動いていたら、今こうして俺と話しをすることはなかった」

 作蔵は桃矢の頭の上にそっと、掌を乗せた。


「『蓋閉め』さんに“お仕事”をお願いする場合、お金がいるのでしょう? ぼく、もらえるおこずかいがーー」

 桃矢はズボンのポケットから百円硬貨を1枚出すと、作蔵に差し出そうとした。


「待て、待て。子どもがど偉いことで悩むな」

 作蔵は苦笑いをすると、百円硬貨を桃矢の掌の中に押し返した。


「守生くんと長治郎くん。ぼく、ふたりとまた一緒に遊びたい」

「十分な“お願い”だ。任せな、桃矢」


「うん」と、桃矢は作蔵と拳を合わせて、腕を絡ませたーー。



 ***


 日没にはまだ早すぎる時刻だった。

 雷鳴と閃光。

 落雷の衝撃が家屋に身体にと、駆け巡っていた。


「作蔵、ブレーカー上げても点かないよ」

 家屋内が漆黒に包まれて、伊和奈は懐中電灯を照していた。


「慌てるな。雷が何処かに落ちたから、当たり前だ」

 動揺する伊和奈とは裏腹に、作蔵は冷静沈着な態度を示していた。


「ご飯、あと少しで炊き上がるところだったのに……。」

 伊和奈は、懐中電灯の灯りを顎の下から照しながらの顔を、作蔵へと剥けた。


「雷めぇええっ!」

 作蔵は激昂した。


「みっともないから、行くなっ! あんたが文句を言ったところでしっぺ返しを喰らのが関の山よ」

 伊和奈は家から出ようとする作蔵を、背後から襟首を掴んで止めた。


「飯ぃいい……。」

 伊和奈を振り返って見る作蔵は、号泣していた。


「泣かないでよ。炊きそびれたご飯でおじやにして食べよう」


「あ。俺、やっぱり外に行ってくる」

 作蔵は鼻を啜ると顔つきを厳つくして、背筋を伸ばした。


「何でっ!」と、伊和奈は顎を突き出した。


「全てに繋がる『場所』にだよ。伊和奈、おまえはおじやを作って留守番をしとけっ!」


 作蔵は“仕事着”に着替え、家の外へと出ると傘をささずに一本歯下駄で路を駆けていったーー。



 ***



 雨が止み、西の方角から恍惚とした陽明が空と地上を朱に染めていた。


 作蔵が身に纏う“仕事着”は雨水を満遍なく吸っていた。水気が肌に直接貼り付く感覚が鬱陶しいと思いつつも、作蔵は耳を澄ませながら息を潜めていた。


 作蔵が見ていたのは、水溜りだった。

 今まで見た水溜りと比較など出来ない。所謂、池のような水溜りを作蔵は見下ろしていた。


 全てが、此所にある。と、作蔵は確信した。


 ーー“雨上がり水槽”は、人の想いが強ければ強いほど表れる。思い出を今一度と、願うが鍵……。


「そういうことか。あんたが引きずっていた“何か”はしったこっちゃないが、傍迷惑だとしか言いようがない」

 作蔵は、震える声を聞いていた。

 か細く聞き取るのはやっとだったが、漏らすまいと、耳を傾けて聞いていた。


 ーーふふふ。わたしは此処で生まれて育ったの。ずっと、此処が帰る場所だといつも安らいでいた。でも崩された、潰された。わたしは何処で癒しをすれば良いのかしらと、干からびるほど涙を溢したわ……。


「寸なりと嵌まれば儲けもん。喰らうにしても喰らえないならば、游がせて力尽きるのを待つ。あんたは、そうやって“餌”を貪っていた」


 ーー怖い言い方をするのね? わたしは、わたしが溢した涙の溜まりに填まった“生”を游がせているだけよ。


「それはおまえの勝手な言い分だ」

 作蔵は水溜まりに波打つ水面をじっとして、見下ろし続けた。


 こぽこぽ。と、水面に幾つもの気泡が浮かんでは弾けていた。

 作蔵は、地が底から突き上がる振動を履く一本歯下駄を通して足元に伝わせた。

 水溜まりから噴き出した水飛沫を全身に受け止めても、作蔵は直立不動の姿勢を保っていた。


 ーー遠いようで近い過去だったわ。誰かが此所に填まった“生”を取り戻す為に、わたしが溢した涙の中に潜るをしたけれど、探し当てられることはなく、游ぐ貌に変わった。あなたも“生”を探す為に、此所に来たのかしら?


「遠回しの揺すぶりか?」

 作蔵は肩に掛ける襷の結びを解くをしていた。


 ーー久しぶりの“ご馳走”は、鮮度があるうちにわたしが責任をもって味わう……。



 ーーーーさらばだっ!



 垂直に開く口、見えるのは棘のような切っ先で並ぶ歯と、触れればやすりと思わせる粗目の肌。


 作蔵が“雨上がり水槽”から現れた“モノ”に飲み込まれる瞬間だったーー。

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