雨上がり水槽〈4〉
からっからの天気の日が続いていた。
夕暮れになっても雨が降らない。雲行きがあやしく夕立ちを期待するものの、結局一滴の雨粒さえも降らないまま、日没となってしまった。
これでは“現場”を見ることが出来ない。
深刻な面持ちをする作蔵は、仕切りがある皿に盛られている刻まれた茗荷と万能ねぎ、大葉を次から次へと手掴みして、器の淵までなみなみと注がれている麺汁に浸すと、箸の先で撹拌した。
作蔵のことだ。器から溢れそうな麺汁にそのまま麺を浸したら凄いことになる。と、作蔵の様子を見ていた伊和奈は危惧した。
案の定、作蔵が笊の中でてんこ盛りの素麺がごっそりと、作蔵によって毛糸玉のように塊となって箸に挟まれていた。
「わーっ! たんまっ!!」
「何だよ?」
素麺の先を(ほとんど薬味まみれの)麺汁に浸そうとしていた作蔵に、伊和奈が阻止した。
「ぶっかけにしよう。ね、そうしようよ」
「え~、どうしてぇええ?」
「いい? 作蔵。ただ、麺汁に素麺を浸けて食べても麺汁の味が薄くなる。麺と絡み損ねた薬味だって器の底に沈みっぱなし。その事を考えるとぶっかけはいいよ。麺と薬味、汁が均等に絡み合って、麺の最後の一本まで美味しく食べられる。勿論、薬味ごと汁も飲み干せるのが、ぶっかけの良いところよ」
作蔵は「ごくり」と、喉を鳴らした。
「はい、決まりっ! 丼を持ってくるから、食べずに待っててよ」
「どれくらい待てばいいのだよ?」
「10秒っ!」
伊和奈は廊下を猛烈な速さで駆けて、台所に置く食器棚から木製の丼を取り出し、四畳半の卓袱台の前で座る作蔵に差し出したーー。
***
「作蔵、布団敷けたから“納涼の部屋”に行っていいよ」
伊和奈は作蔵の部屋の扉をノックした。
「先に寝てろ」と、作蔵が部屋から出た。
「作蔵?」
伊和奈は作蔵の出で立ちに呆気となった。
「家でじっとしていたら“あれ”が表れる瞬間を見れない」
「でも……。」
「いいのだよ。伊和奈、おまえが雨に濡れて風邪をひいてしまうは、させたくない」
伊和奈は頬を朱に染めた。
「美味い飯とぽんぽんがお預けは、嫌だから」
「うるさいっ! あっちにいけーっ!!」
半ば追い出されるように、作蔵は家の外に出たーー。
***
雨は日中に降るとは限らない。大地を照らすのは太陽だけではない。
作蔵は蛇の目傘をさして、夜が更けている路を一本歯下駄を鳴らして歩いていた。
雨が強く降りしきる、地面を濡らす雨露が泥水となって、作蔵が履く一本歯下駄を汚していた。
作蔵は足元が明るいと、蛇の目傘の柄を握ったまま、明るさの先を見上げた。
作蔵が見ていたのは、笠を被った朱色の蛍光を照らす街灯だった。
作蔵は、再び足元を見下ろす。
作蔵の歩幅だと軽く跨げる水溜まり。水面の波紋は絶え間なく輪を描き、跳ね返す雨露が作蔵の褄先に被っていた。
雨音が弱った。と、作蔵は蛇の目傘を綴じた。
雨粒は、まだ降っていた。
それでも作蔵は、街灯の下の水溜まりから離れるをせずに、じっとしていた。
絶対に、表れる。瞬間を見るを、作蔵は待っていた。
波紋が、減った。
作蔵は濡れた前髪から滴る雨露が目に入っても、水溜まりから視線を反らさなかった。
雨が上がった。
いよいよだと、作蔵は身構えた。
泥水が、徐々に澄みきっていくのがはっきりと見えていた。
透明で、水の底まではっきりと見える水溜まり。水面の下で、群れをなす赤や白と鮮やかな色の魚が濃い緑の水草に尾びれを掠めさせて、華麗に游ぐ。
“雨上がり水槽”が表れる瞬間を、作蔵は見た。
“人”によっては心を奪われる。
ただ“雨上がり水槽”を見ただけでは、最悪な情況に陥るはない。
帰ろう。
作蔵は、厚い雲でおおわれている、うっすらと明るくなる空を見上げながら欠伸をしたーー。
***
空が蒼くて風が吹いても、暑いはうんざりだ。
緑に色づいている稲穂が一面に広がる田園の畦道。
水色の半袖ティーシャツに黒の七分丈パンツで身を包む伊和奈は、白いレースの手袋をはめて、日傘をさして歩いていた。
ーー学校、夏休みでしょう?
ーー先生たちには関係ない。
伊和奈は『依頼主』が勤務している小学校に向かっていた。
作蔵が帰宅したのは、今日の明け方だった。伊和奈は結局就寝せずに作蔵の帰りを待っていた。
ーー『依頼主』に会って、こいつを伝えてくれい。
作蔵は1枚の紙切れを伊和奈に渡すと“納涼の部屋”で敷きっぱなしになっていた布団の中に入り、鼾をかきながら寝に落ちた。
「こっちだって、寝不足よ」
伊和奈は歩く度に欠伸をしていたーー。
「まあ、わざわざここまで来られて」
伊和奈は学校に着いた。
校舎内にいた職員に『依頼主』が居る場所を口頭で伝えられ、中庭にいた『依頼主』と会っている最中だった。
「夏休みでも出勤て、この為に?」
伊和奈は『依頼主』が花壇で花房を紫色に色付きをしているトレニアに如雨露で水やりをしている様子を見ていた。
「いえ、息抜きをしています。教論の仕事は一般の方が考えているよりも多忙窮まるものです。今の時期は、児童たちへの授業がないだけであって、研修だ、校長に書類を提出等がありますよ」
「はあ。と、いうことは?」
「お察しの通り、民間企業でお勤めされている方たちと変わりない。とも言うべきでしょうね」
『依頼主』は水やりの手を止めて、伊和奈に笑みを湛えていた。
「貴重な時間に押し掛けて、気の毒だわ」
「大袈裟ですよ。伊和奈さん、でしたわね? ご用件を是非、お願いします」
「はい」と、伊和奈は申し訳なさそうに頷くと、腰に着ける巾着袋から四つ折りに畳まれた紙切れを抜き取った。
『依頼主』は、伊和奈から紙切れを受け取り開くと溜息を細く吐く。
「どうして?」
伊和奈に背中を見せる『依頼主』は振り向いて、目蓋を大きく開いた。
「わたしがはめている手袋には、あなたに触れる為の“術”が掛けられているの」
「止してください。もう、十分です」
「“依頼”は、成立しているの。たとえ、あやふやな“依頼”の内容でも『仕事』だから」
「〔断片をはっきりと〕と、あなたが渡された紙に書かれていた。また、同じことを伝えなければならない。辛い、とても辛い……。」
「“あきらめる”は、もっと辛いよ」
伊和奈の声に耳を澄ませる『依頼主』の顔がぱっと、赤みをおびた。
「2学期が始まるまでに、子ども達を助けたい」
「うん」
「子ども達と手を繋ぎたい」
「うん、うん」
『依頼主』は、息をすうっと、口から吸い込む。
「“雨上がり水槽”で沈むわたしの“器”を、取り返したい……。」
「まとめて、任せて」
『依頼主』の頬をつたう涙が、花壇の土の窪みで溜まる水に滴る。
波紋が消えて、水面の下でめだかが一匹游いでいたーー。




