第38話 深海に、光は届くか
どこかで、誰かの恋がはじまる
水深六千メートル、有人潜水調査船「はやぶさ」の狭い船内で、海洋生物学者の氷見ひみ紗都さとは、モニターに映る未知の生物の映像に見入っていた。
「紗都さん、記録用のサンプル、そろそろ回収しますか」
操縦士の桐生きりゅう亮すけが、慎重にロボットアームを操作しながら声をかける。深海という閉ざされた空間での長期調査、この二人はもう三ヶ月近く、狭い船内での共同作業を続けていた。
「うん、お願い。……この生物、発光の仕方が今までのデータと違う。何か、新しい発見かもしれない」
「紗都さんがそうやって目を輝かせてる時、俺、結構好きなんだよな」
さらりと放たれた言葉に、紗都は思わず手を止めた。亮は、いつも通りの飄々とした調子で操作を続けている。この手の発言は、彼にとって珍しいことではなかった。ただの軽口なのか、本気の言葉なのか、紗都にはいつも判断がつかない。
「……亮くんって、そういうこと、誰にでも言うの?」
「まさか。紗都さんにだけだよ」
その一言に、紗都の胸がわずかにざわついた。だが、深海という特殊な環境が、人の判断力を狂わせることもあると、これまでの調査経験が教えてくれている。この揺れる感情が、本物なのか、それとも閉鎖空間特有の錯覚なのか、紗都自身、まだ確信を持てずにいた。
* * *
調査を終え、船内の狭い休憩スペースで、二人は簡単な食事を取っていた。窓の外は、光の届かない、完全な暗闇が広がっている。
「紗都さん、この調査が終わったら、地上に帰るんだよな」
「うん。次の任務まで、しばらく陸上勤務になる予定」
「そうか……」
亮の声に、わずかな寂しさが滲んでいるのを、紗都は聞き逃さなかった。
「亮くん、なにか言いたいことある?」
「……ああ、実はずっと、考えてたことがある」
亮は珍しく真剣な表情で、紗都をまっすぐに見た。
「紗都さんのこと、この三ヶ月で、単なる調査仲間以上に、大切に思うようになった。……こんな環境で芽生えた気持ちが、地上でも変わらないのか、正直、俺自身も分からない。でも、伝えないまま終わらせたくなかった」
真剣な告白に、紗都は静かに息を呑んだ。心のどこかで、この瞬間が来ることを予感していた気もする。それでも、すぐに答えを返すことは、紗都にはできなかった。
「……亮くん、ありがとう。その気持ち、すごく嬉しい。でも、正直に言うと、私も同じ迷いを抱えてる」
「迷い?」
「深海っていう、特殊すぎる環境の中で生まれた気持ちが、地上でも本物として続くのか、私にも自信が持てない。だから、今すぐ答えを出すのは、フェアじゃない気がするの」
紗都の言葉に、亮は少し驚いたような顔をしたが、やがて納得したように頷いた。
「……分かった。無理に急かすつもりはない」
「ごめんね、こんな中途半端な返事で」
「いや、むしろ、紗都さんらしい、誠実な答えだと思う」
亮は柔らかく笑うと、窓の外の暗闇に視線を移した。
「じゃあ、こうしよう。地上に戻って、一ヶ月後。もし、あの時の気持ちが変わらずに残ってたら、その時、改めて聞かせてくれないか」
「一ヶ月後……」
「深海の暗闇の中で見つけた気持ちが、ちゃんと地上の光の下でも輝くものなのか。それを、お互い確かめる時間ってことで」
紗都は、その提案に、静かに頷いた。
「うん。……その時、ちゃんと答える」
窓の外、深海の暗闇の中、ふと未知の生物が放つ淡い光が、船体の外を横切っていった。地上に戻るまでの残り数週間、二人の間に生まれた小さな灯りが、果たしてどんな答えに辿り着くのか、それはまだ、誰にも分からなかった。




