第7話 代打、木村
その日、三鷹セレモニー始まって以来の緊急事態が起きた。
開式まであと五分。
坂口のスマホが鳴った。相手は、今日担当の住職だった。
「……はあ? 三鷹……台? 先生、うちは三鷹『市』の住宅街ですよ。そこ、世田谷区じゃないですか!」
住職は、似たような地名の別の家の通夜へ、堂々と乗り込んでいた。
今からこちらへ向かっても、どう急いでも三十分はかかる。しかし、式場にはすでに五十人近い参列者が、静寂の中で主役の登場を待っていた。
坂口は電話を切ると、恐ろしいほど無機質な目で木村を見た。
「木村。……脱げ」
「え?」
「スーツを脱げ。予備の袈裟が備品庫にある。それから、その丸眼鏡を外せ。……いや、逆や。坊主っぽく見えるように、この老眼鏡をかけろ」
木村は、背筋に凍りつくような悪寒が走るのを感じた。
「坂口さん、冗談ですよね? 無理ですよ。俺は、営業成績ワーストの木村ですよ!」
「ええか、木村。葬儀は『形』や。お経は『音』や。お前は一ヶ月間、特等席でベテランたちの声を聴いてきたはずや。……行け。お前の営業人生、ここですべてぶつけろ」
気づけば、木村は薄暗い舞台裏で、金色の袈裟を羽織らされていた。
頭を深く下げて入場すれば、顔はバレない。
坂口に背中をド突かれ、木村はよろめきながら祭壇の前に進み出た。
会場が、しんと静まり返った。
五十人の視線が、木村の背中に突き刺さる。
木村は震える手で数珠を握りしめ、目を閉じた。
——やるしかない。
木村は喉の奥から、一番「それっぽい」声を絞り出した。
「……なーむー……あみだー……ぶー……」
第一声が出た。
不思議なことに、一度音が出ると、この一ヶ月間に聴き込んできた住職たちのリズムが、濁流のように脳内に溢れ出してきた。
第1話の浄土宗のリズム。
第2話の、あのトイレ住職の朗々とした節回し。
第4話のベテラン住職の、あの独特の呼吸。
それらが木村の中で混ざり合い、独自の「木村流・ハイブリッドお経」となって会場に響き渡った。木村は、自分が何を言っているのか自分でもわからなかった。だが、声にだけは「営業スマイル」ならぬ「営業誠意」を込めた。
背後で、遺族が鼻をすする音が聞こえた。
——よし、いけてる。いけてるぞ、俺!
調子に乗った木村は、第1話で坂口から教わった「絶対に間違えてはいけない宗派の作法」を完璧にこなし、流れるような所作で木魚を叩いた。
コン、コン、コン、コン……。
そのリズムは、かつて営業車で聴いていたラジオのヒットチャートより心地よかった。
読経が終わった。
木村は、一度も顔を上げず、深々と一礼して、堂々とした足取りで退場した。
舞台裏に飛び込んだ瞬間、木村はその場に崩れ落ちた。
そこに、タクシーで駆けつけた本物の住職が、息を切らして立っていた。
「……すみません、遅れました! 今すぐ準備を——」
坂口が、住職の肩を叩いて言った。
「先生。もう、終わりましたわ」
「え?」
「うちの『若手』が、完璧に勤め上げました」
帰り際、受付を通る参列者たちが、満足げに語り合っていた。
「今日のお坊様、お若かったけれど……なんだか魂に響くお経でしたね」
「ええ。どこか、こう、必死さが伝わってきて。心が洗われました」
木村は、控室で抜け殻のようになって座っていた。
坂口が、一通の封筒を差し出してきた。
「木村。これ、今日の取り分や」
「……これ、お布施ですか?」
「アホか。今日の残業代や」
木村は、重みのない封筒を握りしめた。
白い手袋をはめ直すと、指先がまだ微かに震えていた。
外に出ると、住宅街の夜はいつものように静かだった。
木村は空を見上げ、小さく呟いた。
「……なーむー」
その声は、自分でも驚くほど、いい声だった。




