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第8話 何も、起きなかった完


 旅支度の夜から、十日が経った。


 木村涼はあの夜以来、ポケットのメモを必ず確認するようになった。覚えていても、確認する。わかっていても、確認する。坂口に言われたからではなく、自分がそうしなければ気が済まなくなっていた。


 息子の目が、まだ頭の中にあった。


 何も言わなかった目が。


 その夜の通夜は、静かだった。


 故人は八十一歳の女性。大往生だったのか、遺族の表情はどこか穏やかだった。参列者は二十人ほど。こじんまりとした、落ち着いた通夜だった。


 住職は四十代の、物静かな男性だった。


 お経は合っていた。


 お布施は一発で済んだ。


 旅支度は——メモを確認してから渡した。笠、頭陀袋、足袋、わらじ。順番通りだった。住職は何も言わなかった。遺族も滞りなく終わらせた。


 何も起きなかった。


 焼香が始まった。


 参列者が一人ずつ、静かに立ち上がる。木村は誘導しながら、その顔を見ていた。


 泣いている人がいた。


 ただ手を合わせている人がいた。


 故人の遺影を、じっと見つめている人がいた。


 みんな、それぞれの顔で故人を送っていた。


 木村はそれを見ながら、何も感じなかった。


 ——あれ。


 一ヶ月半前は違った。参列者の顔を見るたびに、胸の奥が少しだけ重くなった。知らない人の悲しみなのに、なぜか引きずられるような感覚があった。


 それが今夜は、なかった。


 ただ、こなしていた。


 通夜が終わった。


 片付けをしながら、坂口が言った。


「今日はよかったな」


「はい」


「旅支度も問題なかった」


「メモ、確認しました」


「そや。それでええ」


 坂口は段ボールを折り畳んだ。


 木村も黙って片付けを続けた。


 よかった、と言われた。


 でも、嬉しくなかった。


 うまくできた。でも、何かが足りない気がした。その「何か」が何なのか、木村にはうまく言葉にできなかった。


 遺族の息子が帰り際、受付の前で足を止めた。


「今日はありがとうございました」


 木村は頭を下げた。


「お世話になりました」


「母も喜んでいると思います」


 息子は微笑んで、出口へと消えていった。


 木村はその背中を見送りながら、思った。


 三日前の息子は、何も言わなかった。


 今日の息子は、ありがとうと言った。


 同じ「息子」でも、全然違う。


 でも木村の中では、どちらも同じ温度だった。


 それが、怖かった。


 外に出ると、坂口がいつもの場所に立っていた。


 今日は煙草を吸っていなかった。ただ、夜空を見上げていた。


「坂口さん」


「ん」


「一個、聞いていいですか」


「なんや」


 木村は少し迷ってから、言った。


「慣れてきたら、感じなくなりますか」


 坂口は夜空を見たまま、少し黙った。


「何をや」


「遺族の顔とか……故人のこととか。最初は重かったのに、最近は何も感じなくて」


 坂口はゆっくりと木村を見た。


「それが嫌か」


「……はい」


 坂口はまた夜空を見た。


「そうか」


 それだけだった。


 答えでも、慰めでもなかった。


 ただ「そうか」と言った。


 木村はその言葉を、胸の中に置いた。


 帰り道、木村は歩きながら考えた。


 一ヶ月半で、何が変わったのか。


 線香の匂いに慣れた。霊柩車に慣れた。遺族の涙に慣れた。住職のお経に慣れた。旅支度に——一度失敗したけど——慣れた。


 慣れることは、正しいことだと思っていた。


 プロになるということは、慣れることだと思っていた。


 でも今夜、遺族の息子が「母も喜んでいると思います」と言ったとき、木村の胸は動かなかった。


 それは正しいことなのか。


 木村にはわからなかった。


 空を見上げた。


 星がいくつか見えた。


 ——明日も、誰かの通夜がある。


 木村はそう思いながら、夜道を歩き続けた。


 答えは、まだなかった。

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