第6話 仏がいない
三鷹セレモニー有限会社に入って一ヶ月。
木村涼は、自分の中に「葬儀屋のセンサー」のようなものが芽生えつつあるのを感じていた。
祭壇の傾き、線香の燃え尽きる時間、遺族の微妙な視線の動き。そういったものに敏感になっていた。
だが、その日の違和感は、それらとは全く異質のものだった。
「木村、棺を運ぶぞ」
坂口に言われて、木村は棺の端を持った。
その瞬間、木村の手が止まった。
「……坂口さん」
「なんや」
「これ、軽すぎませんか」
八十キロあった故人の体重、それに棺自体の重さを考えれば、二人で持つにはそれなりの覚悟がいるはずだ。しかし、今手にしているそれは、まるで中身が詰まっていない段ボール箱のような手応えだった。
坂口は無言で棺の蓋を数センチだけずらした。
中を覗き込んだ二人の視線の先には、純白のシルクがふんわりと敷き詰められていた。
そこには、誰もいなかった。
「……坂口さん、仏さんが、いません」
木村の声が裏返った。
「病院から安置所へ運ぶとき、別の車やったな。……あっちの運送屋、下ろし忘れてガレージ戻りやがったな」
坂口の顔が、わずかに引きつった。時計を見る。通夜開始まで、あと十分。
ガレージまで往復すれば、どうあがいても一時間はかかる。
「坂口さん、どうするんですか! 中止ですか?」
「アホか。案内はもう出とる。坊さんも来とる。遺族もロビーにおるんやぞ」
「でも、主役がいないんですよ!」
坂口は鋭い目で周囲を見回した。そして、備品棚に積み上げられた予備の座布団と、山盛りのドライアイスに目を止めた。
「木村。座布団三枚持ってこい。あとドライアイスを全部詰めろ」
「……はい?」
「『形』を作るんや。ええか、葬儀は遺族の気持ちの問題や。中におると思うて拝めば、それはもうおるんや」
木村は気が遠くなるのを感じながら、指示に従った。
座布団を人型に丸め、その上に白い布を被せる。周囲を大量のドライアイスで固める。蓋を閉めると、それなりの重量感が出た。
「開式や。運ぶぞ」
坂口の声は、戦場に向かう兵士のようだった。
木村は、冷や汗でぐっしょりになりながら、座布団(故人役)の入った棺を祭壇へ運んだ。
通夜が始まった。
住職の読経が響き渡る。
遺族は、祭壇に向かって深く頭を下げ、涙を流している。
木村の心臓は、これまでにない速さで鐘を打っていた。
——今、みんなが拝んでいるのは、座布団だ。
——住職が必死に魂を送っている先には、ドライアイスしかない。
極限の緊張が、ふとした瞬間に笑いの閾値を超えそうになる。
木村は唇を血が出るほど噛んだ。
笑ってはいけない。絶対に笑ってはいけない。
もし今、誰かが「最後のお顔を拝ませてください」と言って蓋を開けたら、この葬儀場から白い煙と共に自分の社会人生命も消えてなくなる。
住職の説法が始まった。
「故人の、あの穏やかなお顔……今も私の目に焼き付いております」
——見てないだろ。あんた、今日初めて来たはずだろ。
木村は必死で虚空を見つめた。
通夜は、奇跡的に滞りなく終わった。
遺族が別室へ移動し、会場が静まり返ったところで、ようやく本物の「仏さん」を乗せた車が裏門に滑り込んできた。
坂口と木村は、深夜の会場で隠密作戦のように中身を入れ替えた。
本物の故人を棺に横たえ、座布団を棚に戻したとき、木村はその場にへたり込んだ。
「……坂口さん。これ、詐欺じゃないんですか」
坂口は、冷えた缶コーヒーを木村に放り投げた。
「詐欺やない。サービスや」
「サービス……?」
「誰も悲しませず、予定通りに送り出してやった。立派な仕事やろ」
坂口は、いつものように感情の読めない顔で言った。
木村は白い手袋を外した。
手のひらは、冷や汗とドライアイスの冷気で、感覚がなくなっていた。
空を見上げると、夜の闇がどこまでも深かった。
——おばあちゃん、遅れてごめんな。
心の中で謝ると、どこかで故人が「いいのよ、面白かったわ」と言って笑っているような気がした。
木村は、少しだけ重くなった棺をもう一度見つめてから、会場の明かりを消した。




