第5話 旅支度が、狂った
人間は慣れる生き物だ。
三鷹セレモニー有限会社に来て、一ヶ月半が経った。木村涼は今、線香の匂いを嗅いでも何とも思わない。霊柩車を見ても驚かない。遺影の前に立っても、動じない。
最初の頃は、すべてが怖かった。
でも今は、こなせる。
こなせるということは、わかっているということだ——木村はそう思い始めていた。
それが、慢心だった。
旅支度は、何度もやってきた儀式だった。
故人が極楽浄土へ旅立つための装束を、遺族が手渡す。笠、頭陀袋、足袋、わらじ——その順番で渡すだけだ。最初は坂口に「メモを見ながらやれ」と言われた。最初の二回は、ポケットのメモをこっそり確認した。
でも最近は、見ていなかった。
もう覚えた。そう思っていた。
その夜の通夜は、穏やかに始まった。
故人は七十五歳の男性。遺族は多く、旅支度は十数人で行うという。
木村は祭壇の脇に品々を並べた。
笠、頭陀袋、足袋、わらじ——四つ、確認した。
ポケットのメモには、触れなかった。
もう覚えている。確認するまでもない。
住職が読経を始めた。遺族が横一列に並んだ。
木村は品物を手に取った。
一つ目を渡した。
二つ目を渡した。
三つ目を——渡しかけたとき。
住職の読経が、止まった。
「……順番が違います」
静かな声だった。
でも会場に、よく通った。
木村は固まった。
手の中の品物を見た。
頭の中で順番を辿った。
笠、頭陀袋、足袋、わらじ——。
今、木村が渡していた順番は——笠、足袋、頭陀袋、わらじ——だった。
二番目と三番目が、逆だった。
住職が木村を見ていた。
遺族全員が、木村を見ていた。
ポケットの中に、メモがあった。
最初から見ていれば、よかった。
「申し訳ございません」
声が、少し震えた。
「最初からやり直します」
坂口が静かに言った。
遺族がため息をついた。小さな、しかし確かなため息だった。
息子が故人の手元に置いた品々を、静かに戻した。
遺族が並び直した。
住職が読経を再開した。
木村はポケットからメモを取り出した。
笠、頭陀袋、足袋、わらじ。
書いてあった。最初から、ちゃんと書いてあった。
今度は間違えなかった。
でも、遺族の顔を見られなかった。
通夜が終わった後、坂口は何も言わなかった。
怒らなかった。フォローもしなかった。ただ黙って片付けをしていた。
木村も黙って片付けをした。
いつもなら坂口の「よし」が、どこかで入る。それが今夜はなかった。
その沈黙の方が、どんな言葉より重かった。
遺族の息子が帰り際、受付の前を通った。
木村は深々と頭を下げた。
「本日はお世話になりました」
息子は一瞬、木村を見た。
何も言わなかった。
そのまま、出口へと消えていった。
言い訳を聞かない目だった。
聞く必要もない、という目だった。
木村は頭を下げたまま、しばらく動けなかった。
外に出ると、坂口が煙草を吸っていた。
珍しかった。坂口が煙草を吸うのを、木村は初めて見た。
「坂口さん」
「ん」
「すみませんでした」
「ああ」
坂口は煙草を一口吸った。
「メモ、持ってたやろ」
「はい」
「見んかったんか」
「……もう覚えたと思って」
坂口は何も言わなかった。
煙草の煙が、夜空に溶けていった。
「次から見ろ。覚えてても、見ろ」
それだけだった。
怒鳴らなかった。責めなかった。
木村はその言葉が、妙に胸に刺さった。
帰り道、木村は歩きながら考えた。
笠、頭陀袋、足袋、わらじ。
今なら、目を閉じても言える。
でも今夜、言えなかった。メモを持っていたのに、見なかった。一ヶ月半で少し慣れた自分が、わかったつもりでいた。
遺族は並び直した。
息子は何も言わなかった。
その顔が、まだ目に焼きついていた。
——慣れるって、こういうことか。
木村は空を見上げた。
今夜は星が多かった。
でも、きれいだとは思えなかった。




