第4話 袈裟が燃えた
焼香には、作法がある。
抹香を右手の指でつまみ、額の高さに押しいただき、香炉の炭の上に静かにくべる——宗派によって回数や作法は違うが、「静かに」という点だけは共通していた。
焼香とは、静かなものだ。
木村涼は、そう信じていた。
その夜の参列者は、五十人ほどだった。
故人は六十代の男性。働き盛りで逝った人だったのか、参列者は同世代の顔が多かった。その中に、小さな子どもが何人かいた。親に連れられた、五歳か六歳くらいの子どもたちだ。
木村は会場の隅に立ちながら、その子どもたちを何となく目で追っていた。
葬儀の場に子どもがいると、空気が少しだけ柔らかくなる。泣いている大人の隣で、子どもだけが状況をよくわかっていない顔をしている。それが妙に、人間らしかった。
焼香が始まった。
参列者が順番に立ち上がり、祭壇の前へと進んでいく。住職は読経を続けながら、その様子を静かに見守っていた。今日の住職は五十代、がっしりとした体格で、声もよく通った。立派な袈裟をまとっていた。深い紫色の、いかにも上等そうな袈裟だった。
焼香は滞りなく進んでいた。
木村は内心、今日も何もないなと思い始めていた。
問題は、焼香の列が半分ほど過ぎた頃に起きた。
親に手を引かれた、小さな男の子が焼香台の前に立った。四歳か五歳か、丸い頬をした子どもだった。お母さんに「やってみる?」と言われたのか、真剣な顔で焼香台に向き合っていた。
木村はその姿を、微笑ましく見ていた。
子どもが小さな手で抹香をつまんだ。
よろよろと持ち上げた。
そして——盛大に、手を滑らせた。
火のついた抹香が、宙を舞った。
ゆっくりと、美しい放物線を描いて——住職の袈裟の上に、落ちた。
一瞬、誰も動かなかった。
次の瞬間、袈裟から細い煙が上がった。
木村の体が、勝手に動いた。
考える前に走っていた。
受付に置いてあったタオルを引っ掴んで、祭壇に向かって一直線に走った。参列者の間を縫って、住職の前に滑り込んだ。
タオルで袈裟を押さえた。
ぎゅっと押さえた。
煙が、止まった。
会場が、しんと静まり返った。
読経が、止まっていた。
木村は膝をついたまま、住職を見上げた。
住職は木村を見下ろしていた。
表情は——読めなかった。
「……失礼しました」
木村は頭を下げて、その場を離れた。
会場の空気が、重かった。
参列者は誰も動かなかった。子どものお母さんが、真っ青な顔で子どもを抱きしめていた。子どもは状況がわかっていないのか、きょとんとした顔で木村を見ていた。
坂口が木村の隣に来た。
小声で言った。
「よくやった」
木村は生まれて初めて、坂口に褒められた気がした。
しばらく、誰も動かなかった。
焼香が止まっていた。読経が止まっていた。五十人の参列者が、固まったまま時間が止まったような会場の中にいた。
そのとき、住職が動いた。
袈裟の焦げた部分を、一度だけ見た。
それから前を向いた。
数珠を持ち直した。
そして——読経を再開した。
低く、静かに、しかし確かな声で。
さっきより、少しだけ早いテンポだった。
参列者がほっとしたように、また手を合わせ始めた。焼香の列が、ゆっくりと動き出した。
木村は会場の隅に戻って、タオルを持ったまま立っていた。
住職はムッとした顔のまま、読経を続けていた。
笑顔ではなかった。明らかに、機嫌は良くなかった。
でも続けていた。
それだけは、確かだった。
通夜が終わった後、子どものお母さんが木村のところへ来た。
「本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた。目が赤かった。
「いえ、お子さんは何も……」
「でも、袈裟が……」
「大丈夫でした。少し焦げただけで」
木村はそう言ったが、実際のところ袈裟がどの程度のダメージを受けたのかは、よくわからなかった。上等そうな袈裟だったことだけは、わかった。
お母さんがもう一度頭を下げて、子どもの手を引いて去っていった。
子どもは木村を振り返って、ぺこりとお辞儀をした。
木村は思わず、小さく手を振った。
後片付けをしながら、坂口が言った。
「住職、袈裟のこと怒ってたやろな」
「……そうですね」
「まあ、高いからな。ああいうのは」
「いくらくらいするんですか」
「さあな。でもお前の月給より高いと思うぞ」
木村は黙った。
自分の月給より高い袈裟に、火がついた。それを自分が消した。でも住職はムッとしたまま通夜を続けた。
誰も悪くない。
強いて言えば、子どもが手を滑らせた。でも子どもは悪くない。
いつもと同じだった。
外に出ると、夜風が冷たかった。
木村は空を見上げた。今夜は雲が多くて、星は見えなかった。
今日は走った。
いつもは固まるだけなのに、今日だけは体が勝手に動いた。
正しかったのかどうかは、わからない。住職はムッとしていたし、袈裟は焦げたし、通夜の空気はしばらく重かった。
でも煙は、止まった。
それだけは確かだった。
——まあ、いいか。
木村はタオルをポケットに押し込んで、駐車場を歩いた。
霊柩車が一台、今夜も静かに停まっていた。




