第3話 お布施が、足りない
葬儀の世界には、表と裏がある。
表は、厳かだ。白い菊、線香の煙、静かな読経、涙をこらえる遺族——そこには死を悼む人間の、純粋な悲しみがある。
裏は、生臭い。
木村涼がそれを学んだのは、三鷹セレモニー有限会社に来て、三週間が経った頃のことだった。
「木村、お布施持っていけ」
坂口が茶封筒を差し出した。
「控室、わかるか」
「はい。廊下突き当たりを右に」
「そや。ノックして、一礼して、両手で渡す。それだけや」
木村は封筒を受け取った。ずしりとした重みがあった。中身は現金だ。遺族から預かり、担当住職へ渡す——それがコーディネーターの仕事の一つだった。
事前に金額は確認している。坂口が遺族に「相場はこのくらいです」と丁寧に説明し、遺族が用意する。木村たちはただの運び役だ。
——簡単な仕事だ。
そう思っていた。
控室のドアをノックした。
「どうぞ」
今日の住職は、六十代の小柄な男性だった。白髪混じりで、丸い顔に人の良さそうな笑みを浮かべていた。最初に見た印象は、「近所の釣り好きのおじさん」だった。
「お布施でございます」
木村は両手で封筒を差し出した。深く一礼する。
「ああ、どうも」
住職は封筒を受け取った。
そして——その場で開けた。
木村は内心「え」と思った。研修でそこまで習っていなかったが、なんとなく、その場で開けるものではないと思っていた。
でも住職は開けた。
慣れた手つきで、中身を確認した。
笑みが、消えた。
「……これ、いくらですか」
穏やかだった声が、少し低くなった。
「は、はい。遺族様からお預かりした金額で——」
「相場、ご存知ですか」
「は、はい、事前にご説明は——」
「これじゃ、困るんですよ」
住職は封筒を木村に返した。
両手で、丁寧に。
でも目は笑っていなかった。
「段取りが悪い」
木村は封筒を受け取りながら、思った。
——俺か。怒られてるの、俺か。
俺は運んだだけだ。金額を決めたのは遺族で、説明したのは坂口で、俺はただ廊下を歩いてドアをノックしただけだ。
でも今、怒られているのは、俺だった。
「申し訳ございません」
木村は深々と頭を下げた。
なぜ謝っているのか、自分でもよくわからなかった。
坂口のところへ戻った。
「坂口さん」
「ん?」
「お布施、返ってきました」
坂口は木村の手の封筒を見た。それから木村の顔を見た。
「怒られたか」
「……はい」
「そうか」
坂口はそれだけ言って、少し考えるそぶりをした。
木村は期待した。ここで坂口が「わかった、俺が遺族に話す」と言ってくれれば——。
「お前が行け」
だめだった。
「え」
「遺族に説明して、包み直してもらえ」
「俺が、ですか」
「他に誰がおる」
坂口は涼しい顔だった。
木村は封筒を握りしめた。
遺族の控室は、会場の反対側にあった。
木村は廊下を歩きながら、何度もシミュレーションした。なんと言えばいい。「お布施が足りません」とは言えない。「住職がお返しになりまして」も違う。「あの……もう少し……」——これしかない。
ドアをノックした。
「はい」
遺族の息子が顔を出した。六十代、恰幅のいい男性だった。目が少し赤かった。さっきまで泣いていたのかもしれない。
「あの……」
木村は頭を下げた。
「夜分に大変申し訳ございません。お布施の件で、少々……」
息子の顔が変わった。
赤かった目が、すっと細くなった。
「……足りませんでしたか」
「は、あの……」
「わかりました」
息子は溜息をついた。それから部屋の中に向かって言った。
「おい、財布持ってこい」
奥から妻らしき女性が出てきた。二人でこそこそ話している。木村は廊下で、できるだけ存在感を消して立っていた。
壁のシミを数えた。七つあった。
やがて息子が戻ってきた。新しい封筒を、無言で差し出した。
「申し訳ありません」と木村は言った。
何が申し訳ないのか、やっぱりよくわからなかった。
住職の控室に、もう一度向かった。
同じ廊下を、同じように歩いた。
ノックした。
「どうぞ」
さっきと同じ声だった。
「先ほどは失礼いたしました。改めてお持ちしました」
木村は封筒を両手で差し出した。
住職は受け取った。また開けた。
今度は、笑みが戻った。
「ありがとうございます」
さっきの「段取りが悪い」は、どこにもなかった。
木村は深々と頭を下げて、控室を出た。
ドアが静かに閉まった。
坂口に報告すると、「よし」とだけ言った。
木村はその夜、受付に立ちながら考えた。
お布施が足りなかった。それは遺族の話だ。住職が怒った。それも仕方ない話だ。でもなぜか木村が怒られて、木村が謝りに行って、木村がもう一度頭を下げた。
誰も悪くない、と言えば嘘になる。
でも木村が一番悪くない、とは言えた。
——まあ、いいか。
そう思えるようになってきた自分に、木村は少し驚いた。
三週間前の自分なら、絶対に納得できなかったはずだ。
帰り際、坂口が言った。
「木村、お前だんだん葬儀屋の顔になってきたな」
「それ、褒めてますか」
「さあな」
坂口は先に歩いていった。
木村はその背中を見ながら、白い手袋をポケットに押し込んだ。
葬儀屋の顔。
どんな顔なのかは、わからなかった。でも、悪い顔じゃない気がした。
たぶん——何があっても、笑わない顔だ。




