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第2話 お経は止まらない


 葬儀というものに、人は慣れるのだろうか。

 三鷹セレモニー有限会社に来て、二週間が経った。木村涼は白い手袋をはめながら、そんなことをぼんやり考えた。

 答えは、たぶん「慣れない」だ。

 ただ、こなせるようにはなってきた。受付の立ち方、誘導のタイミング、焼香の案内の声のトーン。こなせることと慣れることは、まるで違う。毎回、別の人生がここで終わっていく。それだけは、いつまで経っても重たかった。

「木村、今日は岡田さんとこや」

 坂口が言った。

「浄土真宗。先週やったやろ、覚えてるか」

「はい。南無阿弥陀仏、焼香は額に押しいただかず一回」

「よし」

 坂口はそれだけ言って、霊柩車の方へ歩いていった。褒めない人だった。ただ、「よし」と言うときの声が、わずかに柔らかくなる気がした。それが坂口なりの合格点だと、木村は最近気づいていた。

 その夜の通夜は、穏やかに始まった。

 故人は八十二歳の女性。祭壇に飾られた遺影は、割烹着姿で微笑んでいた。生前の写真なのだろう、背景には見慣れた台所が写っていた。参列者は四十人ほど。遺族席には、六十代と思しき息子夫婦と、その子どもたちが並んでいた。

 住職が入ってきた。

 今日の担当は、初めて見る顔だった。五十代、細身で背が高く、丸眼鏡をかけた住職だった。所作は丁寧で、祭壇の前に座るまでの動きに一切の無駄がなかった。

 木村は会場の隅に立ち、いつものように表情を殺した。

 お経が始まった。

 浄土真宗のお経だった。今日は合っている。木村は内心ほっとしながら、視線を床に落とした。

 五分が経った。

 十分が経った。

 住職の声は安定していた。よく通る、落ち着いた声だった。参列者も静かに手を合わせている。遺族席の息子が、そっと目頭を押さえた。

 ——今日は、何もないな。

 木村がそう思いかけた、そのときだった。

 住職が、動いた。

 といっても、大きな動きではない。ほんのわずか——座布団の上で、お尻を左にずらした。

 お経は続いている。

 声は変わらない。

 でも、お尻が、もぞっとした。

 木村は気づかないふりをした。気のせいかもしれない。人間、長時間正座していれば足も痺れる。姿勢を直したかっただけかもしれない。

 しかし。

 三十秒後、また動いた。

 今度は右に。

 お経は続いている。声は変わらない。でも確実に、座布団の上で何かが起きていた。

 木村は坂口を横目で見た。坂口は微動だにしない。いつもの鉄仮面だった。

 住職のお尻が、また動いた。

 もぞ、もぞ、もぞ。

 お経のリズムとはまったく関係なく、独自のリズムで動いていた。

 木村は唇の内側を噛んだ。

 笑ってはいけない。

 やがて、住職が遺族席の方を向いた。

 お経を読みながら、目だけで何かを訴えていた。

 遺族席の息子が、首を傾げた。

 住職の目が、もう一度動いた。

 息子が立ち上がった。

 住職がすっと立ち上がった。

 お経は——止まらなかった。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 朗々と読みながら、住職は歩き始めた。

 息子が横に並んだ。

 二人は、そのまま会場の外へと消えていった。

 お経の声が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。

「……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 参列者は誰も動かなかった。手を合わせたまま、目を閉じたまま、静かに座っていた。

 木村だけが、目を開けていた。

 会場に、お経だけが響いていた。

 声の主は、いない。

 でもお経は、確かに聞こえてくる。廊下の向こう、曲がり角の先から、くぐもった「南無阿弥陀仏」が流れてくる。

 ——トイレで読んでる。

 木村の頭の中で、何かが崩壊した。

 笑ってはいけない。

 でも。

 でも、トイレで読んでいる。

 お経を。

 トイレで。

 五分ほどして、廊下からお経が戻ってきた。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 声が大きくなってくる。近づいてくる。

 住職が会場に戻ってきた。息子が隣に並んでいる。

 住職はそのまま祭壇の前に歩き、座布団の上に座った。

 読み続けながら。

 一切、止めることなく。

 参列者は誰も目を開けなかった。ただ、静かに手を合わせていた。

 住職のお経が、会場に満ちた。

 さっきより、どこか晴れやかな声だった。

 通夜が終わったのは、午後九時を過ぎた頃だった。

 参列者が帰り際、受付を通っていく。木村は頭を下げ続けた。

「今日のお坊さん、いいお声でしたね」

 年配の男性が、連れの人に言った。

「ほんとに。心がこもってて」

「ずっと読んでくださってたし、ありがたいねえ」

 ずっと読んでいた。

 その通りだった。

 ずっと、どこでも、読んでいた。

 木村は深々と頭を下げたまま、しばらく顔を上げられなかった。

 ——ありがたいねえ。

 心の中で、何かが静かに白旗を上げた。

 後片付けをしながら、坂口がぽつりと言った。

「あの先生な、ああいう人やねん」

 木村は顔を上げた。

「知ってたんですか」

「まあな」

「なんで言ってくれなかったんですか」

 坂口は段ボールを折り畳みながら、少しだけ口の端を動かした。

「言うたら、おもんないやろ」

 それ以上、何も言わなかった。

 木村は白い手袋を外した。

 外に出ると、夜風が頬に当たった。

 木村は空を見上げた。今日は星が少しだけ見えた。

 ——向こうのおばあちゃん、ちゃんと届いたんかな。

 お経はずっと止まらなかった。どこにいても、読み続けていた。

 それはたぶん、誠意だったのだと思う。

 木村はそう結論づけることにした。そうしないと、今日一日が笑い話で終わってしまう気がしたから。

 でも——少しだけ、笑い話でもいいかと思った。

 おばあちゃんもきっと、笑っているだろうから。


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