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第1話 左遷

森課長はA4の紙を一枚、デスクの上に滑らせた。顔も上げなかった。営業成績ワースト三年連続の木村涼に、これ以上かける言葉はないとでも言うように。

「系列って……どちらですか」

「葬儀社だ。うちの系列の。人手が足りないらしい」

 人手が足りない。その言葉の裏にある意味を、木村は一瞬で理解した。誰も行きたがらない場所に、誰も惜しまない人間を送る。それだけのことだった。

 三鷹セレモニー有限会社。

 小さな葬儀社だった。駅から徒歩十分、住宅街の中にひっそりと建つ白い建物。看板の文字は少しくすんでいて、駐車場には霊柩車が一台、申し訳なさそうに停まっていた。

 木村が恐る恐る引き戸を開けると、線香の匂いが押し寄せてきた。

「あ、来た来た。木村くんやろ?」

 奥から出てきたのは、くたびれたスーツを着た男だった。年は四十代半ばか。顔に刻まれた深いシワが、この仕事の年季を物語っていた。

「坂口です。よろしく」

 握手の手が、妙に力強かった。

 研修は三日間だった。

 坂口が淡々と教える内容は、木村がこれまで生きてきた二十六年間で一度も触れたことのない世界だった。

「まず宗派や。仏教言うても全部一緒やと思うたら大間違いやで」

 坂口はホワイトボードに書いていく。浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、真言宗、日蓮宗——。

「お経はそれぞれ全部違う。読み方も、作法も、焼香の回数も違う。ここ絶対覚えや。間違えたら失礼になるから」

 木村はメモを取りながら、内心思った。こんな細かいこと、参列者にわかるのか、と。

 しかし坂口は続けた。

「まあ、参列者はわからへんけどな」

 木村の手が止まった。

「え?」

「普通の人はお経なんか覚えてへん。でも、わかる人はわかる。坊さん同士とか、うちらとか。だから、ちゃんと覚えや」

 木村は再びメモを取り始めた。

 三日目の研修が終わったとき、木村の頭には各宗派のお経の特徴がそれなりに入っていた。浄土宗のリズム、日蓮宗の独特の節、真言宗の梵字音読——。

 覚えてしまった。

 余計なことを、覚えてしまった。

 初めての通夜は、研修が終わって四日目のことだった。

 故人は七十八歳の男性。宗派は浄土宗。担当の坊主は近くの寺の住職で、坂口曰く「いつも来てもらってる先生や」とのことだった。

 木村の役割は、受付と会場内の誘導。喪服に着替え、白い手袋をはめ、できるだけ静かに、できるだけ表情を殺して立っていればいい。それだけだと言われた。

 通夜が始まった。

 祭壇には菊の花が白く並び、故人の遺影が穏やかに微笑んでいた。参列者は三十人ほど。みな黒い服に身を包み、しんと静まり返っていた。

 住職が入ってきた。

 六十代くらいの、ふくよかな体格の男性だった。袈裟をまとい、数珠を手に、堂々とした足取りで祭壇の前に座る。その所作には迷いがなく、木村は思わず「さすがだな」と思った。

 お経が始まった。

 最初の数秒、木村は目を伏せて立っていた。

 しかし。

 ——あれ。

 何かが、引っかかった。

 木村はそっと顔を上げた。住職は目を閉じ、朗々とお経を読んでいる。参列者も手を合わせ、神妙な顔で聞いている。

 でも。

 ——これ、浄土宗のお経じゃない。

 木村の脳内で、三日間の研修が走馬灯のように蘇った。坂口の声が聞こえる。「浄土宗はな、こういうリズムで……」。

 今、住職が読んでいるお経は、そのリズムじゃなかった。音の並びが違う。節回しが違う。これは——。

 ——真言宗のお経だ。

 木村は固まった。

 目だけが泳いだ。

 隣に立つ坂口を、木村はそっと横目で見た。坂口は微動だにしない。鉄仮面のような顔で、祭壇の方を向いている。

 ——坂口さん、気づいてる?

 わからなかった。あの顔からは何も読み取れなかった。

 住職は続ける。参列者は手を合わせ続ける。誰も——誰一人——おかしいとは思っていない。

 木村は唇の内側を噛んだ。

 笑ってはいけない。絶対に笑ってはいけない。ここは通夜の会場だ。故人が眠っている。遺族が悲しんでいる。自分は今日が初仕事だ。

 でも。

 でも、なんで真言宗なんだ。

 この住職は何宗の寺の住職なんだ。

 いや、そもそも間違えているのか、それとも何か理由があるのか——いや、理由なんかあるわけがない、絶対に間違えている——。

 木村は視線を床に落とした。

 笑ってはいけない。

 口の端が、微かに上がりそうになった。

 木村は全力でそれを引き戻した。

 お経は続いた。

 長かった。体感で一時間くらいに感じたが、実際は二十分ほどだったと後で知った。

 住職が読み終えた。

 深々と一礼する。参列者も頭を下げる。坂口が静かに動き出し、焼香の案内を始めた。木村も持ち場に戻り、誘導をこなした。

 通夜が終わったのは、午後九時過ぎだった。

 参列者が帰り際、受付の前を通っていく。木村は頭を下げ続けた。

「立派なお経でしたねえ」

 年配の女性が、隣の人に囁いた。

「ほんとに。心が洗われるようで」

 二人は頷き合いながら、出口へと消えていった。

 木村は、深々と頭を下げたまま、しばらく顔を上げられなかった。

 立派なお経。

 心が洗われるよう。

 ——違うんだよなあ……。

 心の中で、何かが静かに崩れ落ちた。

 後片付けをしながら、木村は坂口に聞いた。

「あの……坂口さん」

「ん?」

「今日のお経って……」

 坂口は木村をちらりと見た。それから、何事もなかったように段ボールを折り畳みながら言った。

「よう気ぃついたな」

「え、やっぱり——」

「よう気ぃついたな、言うただけや」

 それ以上、坂口は何も言わなかった。

 木村は黙って、白い手袋を外した。

 外は静かだった。

 住宅街の夜が、しんと冷えていた。木村は空を見上げた。星はなかった。

 ——向こうで故人が笑ってたりして。

 そう思ったとき、木村は初めて、この仕事が少しだけ好きになった気がした。

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