雪原に響く古い聖歌
<SIDE Ernest&Marion -The Past Days-過ぎ去りし日々>
「ね、覚えてる? マリオン」
アーネストが紫の瞳でベッドの中からマリオンを見つめた。
蒼ざめてやつれた頬には、少し痛々しい微笑みが浮かんでいる。
「もちろん覚えてるよ、アーネスト」
「楽しかったね、あの日」
ベッドの端に腰掛けたまだ11歳のマリオンが、涙をこらえながら力強くうなずいた。
「うん、楽しかった」
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「だからさ、魔術師の弟子なんかが聖歌隊に入ってもいいのかっていってるんだよ」
村で一番裕福な庄屋の息子、ハンスがマリオンの鼻先にその太い指を突きつけた。
彼は腕っぷしが強いが、魔術師(の卵)には暴力はふるわないことに決めているようだ。
ただ、いやみも得意で口は達者だった。
「なんでよ? 別にかまわないでしょ? 黒い魔術師ってわけでもないんだから」
勝気な鍛冶屋の娘でマリオンより二つ年上のソニアが、両手を腰に当てて好戦的にハンスを睨んだ。
「魔術師なんてのは、みーんな怪しいんだよ。神様が嫌がるに決まってんだろ」
ハンスの一の子分で腰ぎんちゃくでもある小柄なトビーが口を尖らせ、ちっちっとソニアに指をふって見せた。
「マリオンの何処が怪しいって言うのよ」
「魔法を使えるところ!」
ソニアの問いにハンスとトビーが声をそろえて間髪いれずに答えた。
「もういいよ、ソニア。僕、もう歌うのやめたんだから。もう聖歌隊じゃないんだ」
マリオンがソニアに明るく言って笑って見せた。
「だめよ。あんただって聖歌隊の一員なんだから。抜けたら許さないわよ。アーネストだって怒るから」
ソニアが自分よりこぶしふたつ分ほど背の低いマリオンを見下ろしながら、小さな子供に言い聞かせるように言うと、
「へへん、奴は怒らないよ」
と、ハンスがすかさずまぜっかえした。
ソニアがハンスのほうを向いて睨むと、おーこわと、ハンスが目玉をぐるんと回した。
「そうね。アーネストは優しいから怒らないわ。でも、困るわね、きっと」
ソニアはそう言うと、再びマリオンのほうを向いた。
「アーネストのソロはよくても合唱部分のつりあいがとれないんだもの。いい? マリオン。あんたが抜けたらアーネストが困るわ。『こ・ま・る』のよ?」
ソニアは困る、のところにアクセントを置いて強調し、マリオンの顔を覗き込むようにした。
ふーっとマリオンが大人びたため息をつき、ソニアに肩をすくめて見せた。
「わかってるよ、ソニア。僕だってアーネストを困らせるつもりなんてないよ。でも、それは僕が決めることではないんだしさ」
「ハンスが決めることでもないわよ」
ソニアがハンスを横目で睨むようにしながら言うと、
「んじゃ、誰が決めるってんだよ、え? ソニア」
トビーがソニアのまねをして腰に手を当てた。
「神様、だよ」
澄んだ声が横合いから聞こえて、その場のみんなが慌ててそちらを向くと、そこには笑顔をうかべたアーネストが立っていた。
アーネストは村の司祭の一人息子で、マリオンよりひとつ年上だった。普段はマリオンとあまり付き合いはない。
司祭館の息子と魔術師の弟子は、あまり相容れるものではないのだ。
神様と未知の精霊の力を受け入れる魔術では、微妙な確執があって、この二人にかかわらず世間的にも相容れないものとして存在していた。
たいていの場合、魔術師のほうはそのようなことを気にしないが、司祭側がそれを気にかけるという形であった。
司祭側に言わせればまさに「神をも恐れぬ」魔術師ということなのかもしれない。
だが、この場合は少し違う。
どちらかというと、マリオンのほうから付き合いを遠ざける形を取っていたのだ。師匠の工房で仲間たちと平穏に暮らすためには、争い事は禁物だった。
だから村の子供たちとは、なるべく争わないようにしていたし、関わりも淡くしていた。
そんなふうにひっそりと暮らしていたのに、ある日、マリオンはアーネストに歌を聞かれてしまったのだ。
その日マリオンは、村からだいぶ離れた牧草地で馬の世話をしながら師匠に教わったばかりの古い聖歌を歌っていた。
師匠は、自分には歌えそうもないからと言って、ハプシコードを弾いて教えてくれたのだ。
その古い歌は少し難しかった。
他の弟子たちは早々に逃げ出し、マリオンだけが最後まで残った。
彼は歌を覚えるのが得意で、一度聞いただけのものでもきちんと歌うことができたのだ。
一応最後まで正確に覚えたはずだが、おさらいしておこうと思ったマリオンは、朝の重要な仕事である馬の世話を一人で買って出た。
晴れた春の朝に広い草原で馬たちを相手に歌うのは、とても気持ちがよかった。
周囲にはもちろん誰の姿も見えず、聞いているのは世話をしている馬たちと風の精霊たちだけのはずだった。
だから、思い切り声を張り上げていた。
声変わり前の細く澄んだ高い声が、古い聖歌を正確につづっていく。
込み入った旋律の音域の広い歌だったが、苦もなくマリオンは歌っていた。
広く何処までも続く若緑の牧草地の中を、聖なる歌が流れていった。
『主は我らの罪を許したもう。優しき主よ。
恩寵を我らに与えたもう、万物の主よ。
この広い枯野にあなたの恩寵を。
主はすべての罪を許したもう。心清き聖なる主よ。
この広い荒れ野にあなたの恩寵を』
「君、すごくうまいんだね、素敵だ。聞いたことのない歌だけど、なんていう歌?」
歌が途切れたときに、後ろから拍手とともに声がかかり、マリオンが驚いて振り返ると、そこにはにこやかに笑みをたたえたアーネストが立っていた。
「……荒れ野に主の優しき恵みを」
少しどぎまぎしながらマリオンは、歌の題を小さな声で答えた。
ふぅん? とアーネストが記憶に刻み付けるようにうなずき、
「ね、もう一度、最初から歌ってみせて?」
と、マリオンに微笑んだ。
「ぼ、僕? 歌うの? でも」
司祭の息子、アーネストの歌がうまいことは村の中ばかりでなく近隣の町村にも知られていて、もちろんマリオンも知っていた。
司祭館で行われるミサの時に、中に入れないままうっとりと外で聞いていたこともある。
澄んだ声は天使の声とまで言われていたし、何にもまして彼の歌自体が美しかった。
どんなつまらぬ俗謡でも、彼が歌うとまるで別のものに聞こえた。
アーネストの歌は何物にも侵されない聖なるもの、と父である司祭はことあるごとに自慢していたが、それを否定する者は誰もいなかった。
そのアーネストに歌えと言われたのだ。
マリオンは躊躇した。
自分の歌がまずいものではないのは知っていたが、彼の前で臆面もなく歌えるほどのものでももちろんない。第一、人が聞いていないと思ったから存分に歌えたのであって、誰かの前で歌うことなど鼻歌以外は考えられなかった。
その躊躇を感じたのかどうか、アーネストが深く息を吸い込んで目を閉じた。
マリオンが驚いて目を見張っていると、アーネストはさっきまでマリオンが歌っていた古い聖歌を途中から歌いだしたのだ。
『主はすべての罪を許したもう。心清き聖なる主よ。この広い荒れ野にあなたの恩寵を』
綺麗な声だった。そして綺麗な歌だった。
旋律が正確なだけでなく、心のこもったものであった。
自分の歌った歌と同じとはとうてい思えない、とマリオンは、ただうっとりと彼の声に聞きほれた。
ふいに歌が途切れた。
宝物を取り上げられた子供のようにマリオンがきょとんとして彼を見返すと、
「ね? 遠かったから最初のとこがよく聞き取れなくってさ。教えてよ」
アーネストが静かに微笑んでいた。
こくんと自分のほうが魔法にかけられたようにマリオンがうなずいて息を深く吸い込み、少しでも恥ずかしくないように目をつぶると歌い始めた。
『主は我らの罪を許したもう。優しき主よ。
恩寵を我らに与えたもう、万物の主よ。
この広い枯野にあなたの恩寵を。
主はすべての罪を許したもう。心清き聖なる主よ。
この広い荒れ野にあなたの恩寵を』
途中からアーネストが加わり、複雑に絡みあう旋律が綺麗な調和を生んだ。
アーネストは主旋律を歌うマリオンに合わせて少しずつ音階を変えていく。
最後のところまで行くと、もう一回、というようにアーネストがマリオンの腕を叩き、それに気がついたマリオンが最初からもう一度繰り返し歌った。
アーネストがそれにまた複雑な旋律を絡ませて、さらに深みのある歌に仕上げていく。
あきることなく歌い続ける少年たちの歌声に聞き惚れるように、柔らかな春風が吹きすぎていった。
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それ以来、週に一度行われる司祭館のミサに、マリオンが姿を見せることが多くなった。司祭様のお話を聞き、主への祈りを行い、ミサの終わりにアーネストの隣で一緒に歌うのだ。
「たまにはソロで歌ってみない?」
アーネストが時々そう誘ったが、もちろんそんなことは絶対にしない、と心に決めていた。
村の人々が日曜ごとに足しげくミサにやって来るのは、司祭様のお話は二の次で、だいたいはアーネストのソロが聞きたいからなのだ。
それは子供であってもちゃんとわかっている。
アーネストのソロにはそれだけの価値があり、それ以外のものは石ころに等しかったのだ。
だが、マリオンが加わることによって、さらに聖歌隊の深みが増したことに関しては誰もが認めていた。
二番目に歌がうまいといえば最近入ったあの金髪の小僧だ、というのは衆目の一致するところだった。
その穏やかで幸せな状態は二ヶ月ほど続いて、そして唐突に終わった。
村の誰かが、その、歌が二番目にうまい金髪の小僧、の身上調査を行ったのだ。
マリオンが魔術師の弟子でしかも貴族の息子で、さらに父親が誰とも知れぬ怪しい者である、と言う噂は村中にあっという間に広まった。
あんな怪しげな子供をミサに参加させて、しかも大事な聖歌隊に入れてそれでいいのか? と真っ先に司祭館にねじ込んできたのは、村の実力者のひとり、ハンスの父親だった。
司祭は、初めてマリオンの素性を知った。
アーネストはもちろん大体のことを知っていたが、父である司祭にそんな話はしなかったのだ。
アーネストにとって彼の素性など、それこそ何の価値もない石ころのような情報でしかなかった。
大人たちがその情報に翻弄されるさまを、アーネストは不思議がって父に尋ねた。
「マリオンのどこに問題があるのか、僕にはわからないよ。彼が何をしたの? 彼は歌がうまいんだよ? それでいいでしょ?」
司祭は返答に困った。そうでなくても司祭館と魔術師の城は、微妙な緊張状態を保っている部分がある。
弟子をたくさん取っている魔術師自体は、白魔術師という触れ込みであったし、困った人が泣きつけば魔法を使って助けてやったりもしているために表立っては誰からも非難は受けてはいないし、それなりの人格者として通ってはいた。
しかし、だからといってその弟子がすべて受け入れられるとは限らないのだ。特にこんな小さな村では。
司祭様が困っている、という話を人づてに聞いたマリオンは自ら身を引くことにした。
「僕、別に自分が歌わなくてもいいんだ。今までみたいに司祭館の外でアーネストの歌が聞ければそれでいいよ」
だが、今度はアーネストが納得しなかった。
「彼が来ないなら、僕も歌わない。僕は神様は公平だと教わったんだ。何にも悪いことしてない彼が司祭館で歌うことができないなら、僕も歌わないのが公平ってものでしょう?」
いつもの彼にも似ず、そう言って駄々をこねた。
司祭である父親は、もっと困ってしまった。
優しく親孝行で頭のいいアーネストではあったが、一度こうと決めたら頑固にそれを守り抜く根性も持っていたのだ。
次の週のミサのとき、マリオンはもちろんだが、アーネストも姿を見せず、なんともしまらない聖歌隊の歌を村の人々は聞かされる羽目に陥った。
「村の自慢の聖歌隊だったのに、これではねぇ」
帰り道ではあちこちで、同じようなささやきとため息が聞こえていた。
ついに司祭は司祭館にマリオンを呼んで、自ら話を聞くことにした。
その魔術師の弟子の子供から納得の行く話が聞けたら、村のみんなかあるいは自分の息子のどちらかを説得できるかもしれないと考えたのだ。
それが今日のことだ。
司祭館へ呼び出されて行く途中、ハンスとトビーに待ち伏せされたマリオンは両脇にくっつかれてたっぷりと嫌味を聞かされ、通りかかったソニアに助け舟を出されたものの、さらに困った事態にはまり込んでいるところだったのだ。
「聖歌は神様のための歌なんだよ。誰が歌ってもかまわないんだよ」
アーネストが、おもにハンスとトビーに向かって言った。
「人殺しでも泥棒でも誰でもいいのかよ? アーネスト」
ハンスが本気で嫌そうに顔をしかめて尋ねた。
「神様は誰にでも平等なんだよ。その人が何をしたかなんて関係ないんだ」
アーネストは笑みを絶やさない。
村で一番有力者の息子ではあったが、ハンスはアーネストに一目置いているところがある。整った優しげな顔立ちのアーネストに微笑まれて逆らえるものはあまりいない。紫水晶のような綺麗に澄んだ目で見つめられると文句が言えなくなるのだ。
ハンスにはアーネストを小突く気もなさそうだったが、まだ不満げに口を尖らせている。
「でも、でもさ」
ハンスの代わりにトビーが口ごもりながら、それでも必死に抗議の言葉を捜していた。
「ほうらね。マリオンは何にも悪いことしてないものね。当然、司祭館で歌うことに問題なんてないわよ」
百万の味方を得たようにソニアが勝ち誇って言うと、
「うちのオヤジは、おかしいっていってるんだけどな。大体魔術師んとこの弟子なんかが、聖なる司祭館に顔を出すだけだっておかしいんだよな。司祭様は魔物から僕たちを護ってくれるために祈ってるんだぜ? その魔物と近しい魔術師なんか司祭館のそばにも寄れないはずだって」
ハンスがいやみな笑いを含ませてトビーのほうを向き、きちんと皆に聞こえるように言い募った。
「な? 魔術師と人殺しと泥棒だったら、どれが一番まともなんだろ? 司祭様にはちゃんとわかってるのかな?」
「もういいよっ!」
マリオンがいきなり大声を張りあげた。
みなが驚いてそちらを向き、アーネストでさえ驚いてマリオンの顔をまじまじと見つめた。
「もう、いいんだ。僕はアーネストの歌が聞ければよかったんだ。それで充分だったんだ。
自分が歌うことで、誰にも迷惑はかけたくないよ。それに」
「それに?」
言葉を切り唇をかむマリオンに、アーネストが優しく尋ねた。
「僕のことはともかく、人を殺しても泥棒をしても神様が平等なのは、おかしいよ。だったら誰もがそうやって生きればいいってことじゃないか。そんなの変だよ。僕、そういうのよくわかんないよ。僕、そんなのはぜんぜん公平じゃないって思うよ」
睨みつけるような上目遣いでアーネストを見ながら、マリオンが一気にまくし立てた。
「納得がいかないってことだね? マリオン」
アーネストが小首をかしげるようにして彼の顔を覗き込み、マリオンの大きな緑の瞳が煌き、唇の端がかすかに震えるのを見た。
「僕、そんなわけのわかんないとこになんか、もう行かないよ。もう二度と司祭館には、行かないっ!」
叫ぶように言うなりマリオンはくるりと踵を返し、誰一人止める暇もないうちに司祭館とはまったく逆の方向へ走っていった。
そしてその日以来、本当に彼は二度と司祭館のミサに顔を見せることはなかった。
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もしも君が、あのまま大人になっていたら、と思うことがあるよ、アーネスト。
君はきっと立派な司祭になって、たくさんの人々を救っていたに違いない。
君はそんな人だったから。
僕など足元にも及ばないほど強くて、そして優しい人だったから。
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