凍てついた瞳の魔術師
<SIDE Marion>
憂鬱の淵からなかなか這い上がることができない。
ずるずると何処までも何処までも果てしなく落ちていく、それが今の自分だった。
欲しいものは、もう、ない。
失ったものが多いのに、それを埋め合わせるすべは、どこにも、ない。
護りたいものは、いま身近にも手の中にもいくつかあるのだけれど、果たしていまの自分に護りきれるかどうか、自信がなかった。
虚ろなまま、漫然と日々を過ごしている。
優しく可愛いフェリシアには、会えばいつもとても癒される。
フェリシアが自分に好意を抱いていることも知っていたし、自分の気持ちが彼女に向かっていることももちろん知っている。
だが、どうしても恋に浮かれてしまう気になれない。
彼女とやすらいだ暮らしをしていくことすら、まるで裏切り行為のような後ろめたい気持ちになってしまう。
いくら戦争であったとはいえ、大勢の人間を直接、間接的に殺してしまうことになった自分が、そんな暮らしをしていていいのだろうか?
彼女がずっとそばにいてくれればいいのに、と思う反面、そうなればきっと、とめどなく彼女に甘えてしまうであろう自分を許すことができない。
血にまみれた剣を握っていた腐臭に染まるこの両手を見るたびに、幾度となく思い出す。
『自分は、穢れている』
その穢れた手でフェリシアに触れることすらためらわれた。
幽鬼のような自分の暗い目を見るたびに、怒りと絶望と哀しみに満ちていたあの戦場を思い出す。
とうとうマリオンは部屋中の、いや城中の目に付く範囲にある鏡をすべて、叩き壊して捨ててしまった。
今、城中で鏡があるのは、フェリシアの部屋だけに違いない。
だが、鏡がなくても自分の目が暗い淵を覗き込んでいることは知っているし、血まみれの手が綺麗になるわけでも、戦場の記憶が薄れてしまうわけでもない。
「もっと割り切りゃいいんだよ。お前はどうせ戦士だというわけでもないし、軍師をしていたからって戦闘の責任がすべてお前にあるわけでもないし。戦争だったんだよ。戦争なんてものは元々そういうものなんだって」
アレックスが慰めるつもりなのかさばさばとした口調で言っていたが、そこまで割り切ることが自分にはできなかった。
なぜならそれは、アレックスが皮肉にも言った『戦士だというわけでもないし』という言葉どおり、自分が加わらなくてもよい戦争自体に首を突っ込んだ『魔術師』だからだ。
戦うこと自体が仕事の戦士であれば、逆にもっと綺麗に割り切りができたに違いない。
けれどあの戦争には、どうしても荷担しなくてはならない事情があったのだ。
四つの聖杯の行方のうちのひとつを、確実に知る者として・・・・・・。
それを知らぬ顔ができなかったのが、お前の不遜さであり、弱さだといわれれば甘受するしかない。
では、死ねばよかったのか、と思うことも、実はないではなかった。
あの時、相手方のあの魔術師との戦いのときに、相打ちで死んでいればよかったのではないか、と。
だが、あの時はどうしてもそういうわけにはいかなかった。
それすらも傲慢といえるのかもしれないけれど、どうしても自分は聖杯の行方を最後まで見届けることが義務であり、課せられた使命だと考えたからだ。
「まだ、時は満ちておらぬ」
どこからともなく聞こえたあの声が、自分への天命であったかと思うのだ。
とはいえ、たとえ天命を受けたとしても、戦争が一時的にではあったが終結し、自分の城へ戻り静かな生活を送れるようになったと同時に、彼の上に憂鬱の影は舞い降りた。
暗い淵をどうしても覗き込まねば、毎日が送れない。
眠れぬ夜が続き、食べられない日々が続いた。
本当にごく普通の人間らしい暮らしができないのだ。
正直このごろは、呼吸をするのすら苦痛になりはじめている。
元来、性質的には陽気で前向きで社交的なほうなのだが、この憂鬱の淵からはなかなか這い上がることができなかった。
あがれないことがさらなる苦痛を呼び、またもっと深みに落ちていく、という繰り返しの日々が続いていた。
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「ね、気がついてる? 今日は聖誕祭の前夜祭なのよ?」
昨日の晩、昼も夜も食べずにすましてしまった彼の部屋に、夜食という口実で焼きたてのビスケットを何枚かと、熱いお茶を運んできてくれたフェリシアが嬉しそうな声で教えてくれた。
そういえば、もう十二月なのか、と、ぼんやりと思う。聖誕祭すら頭に浮かばなかった。もう長いことそういうものとは疎遠になっている気がする。
「明日は聖誕祭。きっと何かいいことがありそうな気がするわ。ね? そう思わない?」
無愛想な自分に明るく話し掛けようとする彼女に、できるだけ答える努力はしている。
美味しいはずなのに、自分にだけ味のしないビスケットの欠片を口に運びながら、このごろすっかり癖になってしまっている口の端を機械的に持ち上げる偽物の微笑を浮かべて、マリオンはただうなずいた。
フェリシアはそんな笑みにだまされたりはしないのだが、それでも満足そうに小首をかしげてもう一度明るく笑ってうなずいた。
「そうよね? きっと何かいいことがあるわ。私、信じてるから」
「神様を?」
珍しく目を上げて聞き返したマリオンにフェリシアは強くうなずいて見せた。
「ええ、そうよ」
「・・・・・・明日、なんにも『いいこと』がなかったら?」
暗い不毛な考えだと思いつつも、どうしても彼女に問わずにはいられない。今までの自分からは考えられないような問いだと、我ながら思う。
ほとんど彼女への嫌がらせに等しいな、とマリオンは心の中で苦笑していた。
だが、それにさして気にとめた風もなく、そうね? とフェリシアが真剣に考え込んだ。黒い大きな澄んだ瞳がくるくると動いていて答えを、というよりふさわしい言葉を探しているようだ。
やがて彼女は、にこっとマリオンに向かって微笑んだ。
「その時は、自分で『いいこと』を探すわ。どこかにきっとささやかな『いいこと』があるわよ」
ふっとマリオンが哀しげな笑みを浮かべた。
「前向きだね、君は」
フェリシアはちょっと恥ずかしそうにしながら、それでもやはり微笑みを崩さない。
「だって、あなたに教えてもらったの」
「僕?」
マリオンが少し驚いたように目を見はると、フェリシアが自分の胸のあたりに右手で軽く置いた。
「答えは常に自分の中にある、って教えてくれたわ。初めて会った時に」
「あれは・・・・・・」
マリオンは絶句した。
あれは、ずいぶん昔のことのような気がする。
まだ、七年ほどしか経っていないはずなのに・・・・・・。
「答えも、神様も、いいことも私の中にあるの。きっとそうなの。だから・・・・・・」
そこまで言ってとどめたフェリシアの『あなたの答えも自分の中にあるんだわ』という聞こえない声が、二人の間を漂った。
「私、もう休みます。また明日、ね? 明日はご馳走、作るから」
しばらくのせつない沈黙の後、あきらめたように小さな笑みを浮かべたフェリシアはそう言って、彼の答えを待たずに部屋を出て行った。
ごめん、と彼女の後姿に心の中で謝るしかない。
答えが見つけられないんだ、どうしても。
僕が、今でも現世にいるのはなぜなのか、その答えが・・・・・・。
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戦争の中で人は人ではない。
敵という名前で僕の前にいる。誰も個人を知らず、知ろうともしない。
だが、本当はそこにいるのは人なのだ。
暖かく赤い血が流れる人なのだ。生きていて呼吸をしている人なのだ。
誰かの恋人であり、夫であり、親であり、子供である、愛のある普通の暮らしを営む、ちゃんと名前をもった人間なのだ。
では、その彼らを殺した自分はいったい何なのだ?
彼らにとっての敵であり、殺戮者であるこの僕は。
名前もなく顔もない、ただの敵。
相手に多大な打撃を与えうる殺人魔術師。
チェス盤上の駒のように、敵か味方かのたったふたつに分けられた僕ら。
僕にも親がいて、好きな人たちがいて、好きでいてくれる人もいて、大事なものもある。
それなのに、ただ敵と味方という名前がついただけで、もう僕たちは人間ではなくなっている。
そこにいるのは、ただの殺人者である僕だけ。
護りたかった。
敵も味方もすべての人たちを・・・・・・。
戦場になったあの血にまみれた大地を・・・・・・。
焼かれ、灰になったあの緑の木々を・・・・・・。
でも、護れなかった。
むなしく握った手の中に、何も掴み取ることができなかった。
生命のかすかな煌きすらも・・・・・・。
そして、戦争の中の僕に、狂喜はなかったのか?
敵を見出し、殺すことに喜びと満足を感じてはいなかったか?
ない。
そんなはずは、ない。
僕は、そんなつもりなんてなかった。
本当に?
本当にそうなのか?
お前は人殺しを喜んではいなかったか?
答えが見つからない。
どうしても、どうしても、どうしても浮上できない。
ぐるぐるとおなじ所を目隠しされたまま、たださ迷っている。
一番耐えられないのはもしかすると、泣けないことかもしれない。
泣いていいのよ、と前にフェリシアが言ってくれたけれど、涙も出なかった。
心のどこかが壊れてしまっている気がする。
自分に何にも価値が見出せない。
虚ろな心を抱えたままマリオンは、暖炉のそばの揺り椅子にかけて火を見つめたまま、また長い夜を一人過ごした。
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がらん、と薪の崩れ落ちる音で浅い眠りから覚めた。
明け方近く、ほんの少しだけ眠っていたらしい。
暖炉の火が消えかかっていて、しんと冷えた空気にさらされた頬が痛かった。
どこか外のほうから音のない音がした気がして、マリオンは立ち上がった。
窓から外を見ると、空が明るんでいた。
それは朝の日の光だけによるのではなかった。
白い雪雲が一面を覆っていて、それがわずかな早朝の日の光をあたり一面に拡散させているのだ。
「雪か・・・・・・」
絶え間なく大きな雪片がひらひらと舞って大地へ落ちるそのかすかな気配が、音のない音の正体だった。
「積もりそうだな」
降りしきる雪で遠くは白く霞んでいる。
下を覗き込むと、もう大地はすっかり雪に覆われていた。
もうだいぶ前から降り始めていたに違いない。
茶色く冬枯れた大地は、すでに真っ白だった。
「野に降り積むは、銀の雪、か」
我知らずマリオンの口から子供の頃に歌った聖歌の一節がこぼれ出た。
その歌は、もうとうに忘れ果てたはずの、しかしとても大切な子供の頃の記憶。
それとともに心のどこかで、りーんとかすかな澄んだ鐘の音が聞こえた気がした。
「アーネスト・・・・・・」
忘れていた名前をひっそりとつぶやく。
紫水晶の優しい瞳が、白い闇の中からマリオンを見返していた。
『野に降り積むは、銀の雪。人を潤す金の雨。
優しき慈愛の雨を降らしたもう、わが気高き主よ』
「アーネスト?」
どこからともなく、天使の声が聞こえた気がした。
『覚えてる? マリオン』




