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かすかな祈りの歌

暗い話です。

<SIDE Felicia>


 声が、聞こえた。

 いや、正確に言うと歌声だ。

 切れ切れではあったが、どうやら古い祈りの歌であるようにフェリシアには思えた。

「誰が歌っているの?」

 この城にこんな風に歌を歌いそうな人なんていたかしら?


 ベッドに半身を起こし、彼女はもう一度耳を澄ませた。

 耳を澄ましていても本当に気をつけていないと聞き逃がしそうなほどかすかな歌声がする。誰の声かはわからない。

 だが男の声のようで、どうやら聞こえてくるのは、外の庭からのようだった。


 冷えた空気がフェリシアの身体を容赦なく蝕み始めた。

「寒いわね、今日は」

 自分の華奢な肩を抱きしめて白い息を吐きながらフェリシアはベッドから降り、つま先に毛皮のついた上靴を履いた。薄物の寝巻きの上に毛織の厚く長い上着を着込むと、やっとほのかに暖かくなった。


 この城全体は、常に地下に湧き出ている温泉から得られる穏やかな暖かさに覆われているのだが、それでも今朝は身を切られるような寒さを感じる。よほど寒いのね、とフェリシアがひとりごちた。

 この城へ居候として厄介になって初めての冬がきていた。12番目のデケンベルの月がそろそろ終わりそうな『聖誕祭』の日の朝だった。


 この城の主である魔術師は、昔、初めて会った時は陽気な温かい瞳の優しい人だったが、あの戦争が起こって世界が変わってしまったように彼も変わってしまっていた。

 戦争自体は春の初めに終わってしまったけれど、暖かな緑の右目と綺麗な金色の左目を持っていた彼は、今はまるで昔とは別人のように異なる鋭い暗い瞳をしたままだ。


「僕の手から血の色が消えないんだ」

 苦いものを吐き出すように言った彼の言葉とその表情を、フェリシアは今も忘れられない。

 出会った頃はあんなに明るく笑う優しい人だったのに、今は悲しげな微笑か口の端に浮かぶ皮肉な笑みか自嘲の笑いしか見せてくれたことがなかった。

「マリオン、お願い。笑って?」

 フェリシアの切実ともいえる願いは、彼の無理に作った哀しげな微笑によってかなえられた。

 あの時、願いがかなって泣いたのはフェリシアのほうで、彼は彼女の涙を優しくぬぐってくれただけだった。彼はすべてあきらめた人のように泣くことすらもしなかった。


 戦争は嫌い。

 人の命も穏やかで平凡な日常も、何もかもが無くなっていく。

 しかも戦いは終わったのに、それでもまだ大事な人を失った人々や家も親もなくした子供たちや明日の希望すらなくした人たちが町にも村にも溢れている。

 どの顔も一様に暗い。戦争は人々のささやかな望みや微笑みすらも奪ってしまった。

 あんな戦争、はじめなければよかったのよ。

 この大陸に伝説の聖杯があったとしても、あんな凄惨な戦争をして世界が救えるとは到底思えないじゃないの。そもそもそんなものが本当にあったとしても、ただの人間に世界を統べることができるなんて思えないし。

 フェリシアはつんと痛くなった鼻の奥を意識しながら、かすかにかぶりを振った。

 いいえ、泣いちゃだめよ、フェリシア。憎しみや悲しみだけを育ててはいけないわ。彼が笑わなくなっても、私だけは微笑んでいなければならないのだから。


 自分は他の人に比べたら格段に恵まれている。充分な食べ物も、柔らかなベッドもある。着る物も綺麗で暖かなものが充分以上にある。

 彼の母親のお下がりということだが、ほとんど手をつけられていないそれらの衣類は真新しかった。

 住まわせてもらっているこの大きな城も、外の寒さなどほとんど問題にならないくらい快適だ。

 昔からだ、という使用人たちも何人かいて、フェリシアは自分の身の回りのことだけをしていればいい。

 使用人たちは気持ちのいい人たちばかりで、主人の変わりように心を痛めながらも、彼にできる限り前と変わらぬ優雅で穏やかな暮らしをしていただかなくては、と努力しているようだった。

 以前よりはつましい食卓にさりげなく飾られる季節の花や、綺麗に掃除された部屋や手入れの行き届いた馬たちにその心が表れているとフェリシアは思う。

 そんな優しい彼らにフェリシアは慰められ、勇気付けられることも多く、それも含めて彼女は、分不相応に贅沢な生活をしている、といってもよかった。


 それらは全部、彼に無償で貰ったのだ。

「何でも好きなだけ持っていくといいよ」と、彼は無造作に肩をすくめて見せたものだ。

 彼はフェリシアをはじめとして使用人や馬たちには優しい言葉をかけ大事にするが、物にはほとんど興味も執着もないようだった。

 彼は自分の持てる財産のほとんどを、戦禍にあった人々のために供出したといってもいい。

 たくさんの金銀財宝の類、高価な薬草や薬石、果てはぶどう酒や食料までも彼は自分の分をほとんど取らずに、すべて王宮の配給役方であるアレックス・ペンドルトン侯に渡してしまった。


 仕えている王もなく、決まった自分の国も持たない彼には、そもそもそんな義理などないのだ。

 力のある魔術師というものは元来そういうものだ。魔術以外のものにその力を認めぬ者も多く、また大いなる力を持つ者は他者に服従することもない。

 王宮勤めの魔術師たちは自身の思惑や義理などで戦争に加担するものも中にはいたが、大抵の者は「たかが普通の人間の野蛮な戦い」に加わることは少ない。また加わらなくても誰も咎めるものはいない。


 つまり最初から、彼がこの戦争に加わる義理も理由も最初からまるでなかったはずだ。

 アレックスは確かに彼の親戚筋にあたるのだろうが、彼に義理や恩を感じてだとは思えない。

 アレックスが王に仕えているのは、少々乱暴に言えば自分の先祖が代々そうであったからということと、自身が王に心酔していたから、という個人的な理由である。

 彼らが北のほうの貴族の血筋であるらしいことは聞いてはいたが、そもそもその貴族の彼らすらもそれぞれ自分たちの思惑で戦渦に身を投じていた。

 敵も味方も家も血筋も関係ないのだ。

 それを思えば、アレックスと親戚だから、という理由でマリオンが王の軍についたはずはなかった。


 疑問をぶつけたフェリシアに彼は、自分には護りたいものがあるから軍に貢献することでそれを護るのだ、と言った。

 こんな混沌とした戦争で特定の軍についてまで彼はいったい何を護りたいのか、とフェリシアは再度尋ねたが、答えは返ってこなかった。彼の伏せられた目に、はかりしれぬ憂いを感じてフェリシアにはそれ以上尋ねる勇気はなかった。


 実は、彼が護りたかったものは、敵も味方も含めたすべての命だったのだと、だいぶ後になってからフェリシアは知った。

 もちろんそれはかなわぬ夢のようなたわごとではあったのだが、言われてみればその言葉どおり、彼はできる限り双方の犠牲を少なくしてなるべく早く戦闘を終わらせることに心を砕いていたように思えた。

 魔術のすべてを駆使し、神経をすり減らし、さらには前線で剣の下にその身をさらして戦ったその彼のおかげでこんなに早く戦争は終わったのだ、とフェリシアは思う。


 それなのに誰が彼に感謝をし、笑顔を戻してくれたのか?

 戦争が終わっても、彼はたくさんのものを失っただけで何も得ることもなく、その瞳を暗く凍らせたまま、ひっそりと自分の城にこもったきりだった。

 最初の頃はそれでも、治療魔法の得意なフェリシアを連れて近隣の町や村へ出向き、被災者たちを見舞ったりしていたが、やがて王宮の治療師たちが何人かやってくるようになるとそれもやめてしまった。


 彼の瞳はいまだに冷たく凍ったままだ。

 フェリシアが微笑んでも、彼が本当の微笑みを返してくれることはなかった。

 せめて怒るなり涙でも流してくれたほうがまだいいのに、と思うこともあったが、もちろん彼はそれもしない。彼は瞳だけでなく心の中まで凍らせてしまったようだった。

 だがそれならば、なおさら自分は笑っていなくては申し訳ないではないか。

 彼のもとでこんなにも安穏な暮らしをさせてもらっているのだから、そのことに深く感謝をしなくてはいけない。

 こんな恵まれた穏やかな生活を与えてくれた彼に、不満顔や泣き顔を見せるわけにはいかない。


 とはいえ、フェリシアの心の痛みは、彼のせいだ、と言えなくもない。フェリシアは彼をひそかにずっと愛していたから。そのための心の痛みがフェリシアを苦しめている。

 口にだして彼への思いを言い募り、彼の前に身を投げ出して大声をあげて泣き崩れることができたなら、少しは楽になるかもしれないと思わないでもなかった。

 だが、そんなことをすれば優しい彼がきっと困ってしまうだろう。それがわかっているフェリシアにはそれを実行することなどできなかった。

 彼に対する気持ちをひた隠したまま、フェリシアは彼のために自分ができることならなんでもしようと思っている。


 部屋にこもったままの彼と普段はほとんど顔をあわせることもなかったが、ごくまれに彼の気が向けば食事を一緒にすることもある。

 そんな時、フェリシアが明るく笑うたびに、ほんの少しだけ彼の瞳の氷が融けていく気がするのは自分の気のせいだけではない、と思いたかった。

 そう思うことで、彼女の気持ちは少しだけ軽くなった。


「誰の声かしら?」

 フェリシアは上着の襟元をかき合わせると、窓際へ寄って外を覗いた。

 高台にそびえるこの城の窓の外には、広い草原が広がっているはずだったが、今、目の前に広がっているのは、ただ真っ白な雪原だった。

 雪はもうやんでいたが、いつのまにか枯れた寂しい草原は朝日に眩しく輝く雪原と変わり、遠くの木々もすっかり雪をかぶっている。


「雪だわ! 昨夜のうちに降ったのね?」

 我知らず弾んだ声になっていた。

 雪を掻いたりおろしたりする重労働があるのは、最初からわかっているのに雪が降ると素直に嬉しくなってしまう。

 今年の初雪はもうだいぶ前に降っていたが、こんなに積もることはなかったのだ。


 わくわくした気分のままであたりを眺めていると、その雪野原の真ん中へ続く足跡とそこにたたずむ人影に気がついた。

 遠く離れてはいるが、風になびく長い金色の髪にフェリシアは彼だ、と気がついた。

 彼はいつも着ている淡い色の服に白い外套を羽織っていて、雪野原とほとんど同化している。髪が金でなかったら気がつかなかったかもしれない。


 やがてきれぎれにかすかな歌声を、風が彼のほうから運んできた。

 やはり静かな古い祈りの歌でさっきのとは別のものだったが、さっきの歌も彼だとフェリシアは気がついた。深く柔らかな声は、そういえば彼のものだ。

「彼が、歌ってた、の?」

 思いがけないことに幾分衝撃をうけつつも、少し浮かれた気分でフェリシアは窓から離れ、急いで身支度を始めた。

「彼、少しは気分がいいのかしら?」

 だといいんだけど、とつぶやきながら急いでフェリシアは乗馬用にと貰ったお小姓風の上着とズボンを身につけ、長いブーツに足を入れた。


 彼が戻って来てしまったら、また部屋へ閉じこもってしまうかもしれない、と気がせいているせいで足がもつれそうになりながら、フェリシアは長い階段を駆け降りていった。

 しかし、そこまでして急いだのに彼が出て行ったと思しき裏口の扉を開けると、こちらへ向かって歩いてくる彼の姿が見えた。しかももうだいぶ城のほうへ近づいている。

 足元には出て行ったときの彼の浅い足跡がついていた。

「待って、待ってー」

 たぶん何を待つのかと不思議がっているだろうな、と思いながらフェリシアは叫び、勢いよく戸口から飛び出し彼の足跡の上へ一歩を踏み出した。


 そこには雪と大地の少し固い感触があるはずだった。

 しかし、落とし穴にでも落ちかけたような、がくんと身体が沈む感じがしてフェリシアは悲鳴をあげた。

 そういえば、ここには何段かの石段があったのではなかったか?

 変だ、と思ったときはすでにすっかり腰のあたりまで重く固まりやすい雪に埋まってしまっていた。

 支えるものがないまま、前のめりに倒れたのでほとんど全身が雪まみれになっている。

 上着の襟首やブーツの縁にまで雪が詰まった感じがして、フェリシアは泣きたくなった。


 [大丈夫かい? フェリシア。けがしてない?」

「ええ、大丈夫してないわ。でも、なにこれ?」

 慌てて走ってきたらしい彼の声が上から降ってきて、身動きが取れないフェリシアは情けない顔でそちらを見上げた。

「そう、よかった」

 彼は雪の縁に危なげなく立ったまま、彼女を見下ろしている。


 次の瞬間、フェリシアは自分の目を疑った。

 彼は彼女のほうへかがみこみ、小さな、だが見誤りようもない昔と同じ優しい微笑を浮かべて手を差し出したのだ。

「ど、うして?」

 フェリシアは久しぶりに見る彼の笑顔に対して言ったつもりだったが、

「僕は雪に沈まないように魔法をかけてあるんだよ」

 彼はフェリシアの差し出した手をつかみ取って、彼女の身体を軽々とかかえ上げながらそう答えた。


 雪の上へ引き上げられた瞬間にフェリシアの身体を柔らかく暖かな光が一瞬包み込んだ。

「ほらね? これでもう大丈夫」

 マリオンがかけたその魔法のおかげで、彼女の身体はもう雪の下に沈まなかった。

 1インチにも満たない浅い足跡が、柔らかな雪の上についているだけだ。

 彼の手を借りて上着の背中やブーツの中に詰まった雪をはらってから、フェリシアはやっと落ち着いてあたりを見回してみることができた。

 重い雪は一晩でかなり積もっているようだ。


 その彼女の視線に答えるように、マリオンが大きく城壁に向かって手を横に振って見せた。

「夜のうちに3、4フィートほど積もったみたいだよ。このへんは吹き溜まりだから、もっとかもしれないね」

 それから、また落ちやしないかと足元を気にしながら、彼にこわごわと寄り添っているフェリシアのほうを見おろして、

「はいてたのがスカートでなくてよかったね?」

 と、今度は少し悪戯っぽく微笑んだ。


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