台風発生
サッカー日本代表が使用したロッカールームを綺麗にしてから会場を後にするというのは有名な話だが、小野寺もホテルをチャックアウトする際に部屋を片付けるのを習慣にしている。
ただし、ホテルのベッドや旅館の布団は清掃員が客の忘れ物をチェックしなければならないそうなので、使用したままの状態で放置するように心掛けているのだった。
部屋を出る直前に緊急の呼び出しを受けたが、大会期間中はひっきりなしに連絡が入るため、この時の小野寺もそれほど重要な案件だとは思わず、ホテル三階の会議室へ向かった。
大会期間中は議論を必要としないため、会議室は報告主体のスクール形式でテーブルと椅子が配置してあった。既に組織委員が集まっており、挨拶を交わしつつ、小野寺は彼らと向かい合う形で議長席のテーブルに腰を下ろすのだった。
「おはようございます」
若手委員がひと際大きな声で挨拶をしたのは、統括本部長の平松正が姿を見せたからだ。日本代表引退後、銀行勤務を経て、招致委員としてW杯の開催決定に貢献した一人だ。
現役時代のポジションは九番のスクラムハーフで、小兵ではあるが、冷静な判断力で試合をコントロールするのを持ち味としていた男である。年齢は五十五だが、丁寧に白髪染めをしているので実際より若く見える。
平松が議長席の中央に座る前に、一緒に連れてきた男を紹介する。
「初めての人もいると思いますので紹介しますね。こちらは気象アドバイザーの野田さんです」
「ああ、どうも、初めまして、野田です」
と司会席で立ったまま挨拶をする彼は、気象庁が発表する情報を独自分析する気象情報提供事業社の社員だ。これまでもスポーツ関連イベントのアドバイザリー契約を多く結んできたので、小野寺とは旧知の仲である。
スポーツの経験はないが、スポーツ観戦は大好きで、まさに趣味と実益を兼ねた仕事をしているということになる。昨夜も大いに盛り上がったようで、現在は二日酔いのサラリーマンの状態だ。
「それでは野田さん、報告お願いします」
平松本部長の指示に従って、野田が説明する。
「えぇ、はい、今から三時間前になりますが、マリアナ諸島の東海上で台風十九号が発生したとの報告を受けました。現段階ではどのくらい大型になるかは予測できませんが、直撃を想定したスケジュールに組み替えていただくよう手配願います」
ここからマニュアル通り、議事進行を務める小野寺の質疑が始まる。
「直撃する可能性が高いということですか?」
「明日の同時刻になればはっきりと断言することができますが、現段階でも弊社の分析では直撃するとの見方が大きいです。理由は海水度の異常な高さですね」
小野寺が適度に質問を挟む。
「どういった関係が?」
「海水温が高ければ大型に発達して、こちらに向かってくるということになります。弊社独自のシミュレータにかけたところ、先の十五号に匹敵する台風になると予測しています」
千葉県の停電被害は深刻で、大会関係者が最も危惧している懸案だ。
「到達予測は?」
「このまま大型に発達すれば週末の金土日、いずれかに直撃すると思われます。もちろん逸れていくことも考えられますが、海水温が高いので、期待はしない方がいいでしょう」
そこで場内からため息が漏れた。週末の三日間というと、そこに日本戦も含まれてしまうからだ。
「被害予測は?」
「それはまだ分かりません。明日ですね、明日の午前中の会議で進路やおおよその被害予測ができると思います」
野田が作り笑顔を見せる。
「大丈夫ですよ、発生直後の予想はめったに当たりませんから」
気休めのつもりだろうが、誰一人として安心して笑顔になる者はいなかった。
平松本部長が仕切り直す。
「それではバスの時間もありますから、続きは明日にしましょう」
それから今後のスケジュールを確認して散会するのだった。
「小野寺君」
会議室から廊下に出たところで、平松が呼び止めた。
「はい」
「明日、休みを取る予定だったね」
「はい、ですが、それは、もう」
「うん、しかし、明日以降も休めそうになさそうだ」
東京に自宅を構える小野寺だが、大会期間中は各国の関係者が泊まるホテルで一緒に宿泊することになっているので、国内にいながら海外出張しているような状態だった。
「だから午後から半休とし、今日は家に帰るといい」
「ですが、私だけ休むというわけには」
平松が柔和な笑顔を見せる。
「君が休まなければ、他の者も休めないじゃないか」
「そうですね、承知しました」
休まないことを美談にしてはいけないというのが昨今の風潮と知りつつも、休日返上で働き続けてしまうのが小野寺だ。それでも平松の指示ならば素直に従うのだった。だが、疑問がある時は直接訊ねる。
「しかしプール戦が終わる今週を乗り切れば、半数以上の代表が帰国しますし、日程にも余裕が生まれます。ですから部下に休みを命じるだけでも構わないのですが」
平松が試合の目つきになる。
「いや、野田さんが言ってただろう? 『発生直後の予想は当たらない』と。つまり想像をはるかに超える災害も起こり得るわけだ。だとしたら、今日しか休める日はないかもしれない」
平松正は試合の展開を読むのが上手い選手だった。それをテレビで観ていた小野寺は誰よりも理解しているのだった。




