誕生日に二つ
そのじぃじ――ママにとってのお父さんが、入院していた頃の話。
子どものママは、毎日家のことを手伝っていた。
僕は最初、お父さんが大変だから、子どもなりに助けたかったのだろう、と勝手にきれいにした。
すぐ訂正された。
「違う違う。怒られたくないからやってたんだよ(笑)」
やりたくてやっていたわけではない。
怒られたくなかったからやったし、我慢しながらも毎日続けた。
そして、その年のママの誕生日。
ひぃおばあちゃんから電話が来た。
ひぃおばあちゃんは、ばぁばがママのことを話していたと教えてくれた。
毎日ちゃんと家のことをやっている。
頑張っている。
それを聞いた瞬間、ママは電話口で号泣した。
遊びたいのに我慢して手伝ってきたこと。
お姉ちゃんやお兄ちゃんはやらないのに、なんで私だけなんだろう、と思いながら続けてきたこと。
それまで溜まっていた気持ちが、おばあちゃんの言葉で一気に報われたような気がした。
「見てくれてたんだって思った」
褒めてもらうためにやっていたわけではない。
それでも、我慢しながら毎日続けていたことを、ちゃんと見てくれていた。
そのことが、子どものママには本当に嬉しかった。
そして、その誕生日には、もう一つあった。
お父さんが、ミニバラをくれた。
「普段そんなことされてこなかったから、余計嬉しかったの」
そこが大事だった。
いつもプレゼントをもらっていた子が、また一つ花をもらったのではない。
普段はそんなことをされないからこそ、嬉しかっ
た。
お母さんもそこにいたから、電話の時みたいに号泣はしなかった。
でも、もらったミニバラをぎゅっと抱きしめて泣いた。
それから一輪挿しを探して、自分の机に大事に大事に飾った。
誕生日に、自分の頑張りを見てもらえていたと知った。
同じ日に、お父さんから花をもらった。
子どものママにとって、それは、自分がちゃんと大切にされていると感じられる日だった。
だから、そのバラを本当に大事にした。
すると、根が出た。
ママには、それが嬉しかった。
お父さんにもらったものが、枯れて終わるのではなく、生きようとしている。
でも、ばぁばには、別のものに見えた。
病院へ鉢植えを持っていくのを避けることがある。
「根付く」という言葉が、病気が根付くことを連想させるから。
だから、切り花ならいい。根がないから。
ところが、ママのバラには、本当に根が出た。
ばぁばは怖がった。
捨てなさい。燃やしなさい。
そう言った。
今なら、ママには分かる。
ばぁばも怖かった。大切な人が病気で、何か悪いものにつながりそうなものを、一つでも遠ざけたかった。
迷信だと分かっていても、怖い時の人間は、そういうことをする。
でも、子どものママには、そんな意味の花ではない。
「だって、お父さんにもらったバラだよ」
普段そんなことをしないお父さんが、誕生日に自分へくれたバラ。
そのバラが、根まで出した。
燃やせるわけがなかった。
燃やしたら、灰になって終わってしまう。
どうしても燃やすことはできなくて、ミニバラを川にながした。
川へ流したら、どこかへたどり着いて、そこでまた根を張って生きてくれるかもしれない。
子どものママは、本気でそう思った。
だから、バラを川へ流した。
泣きながら、少しずつ遠ざかっていく小さなバラを見送った。
もう手は届かない。でも、燃えてなくなるより、どこかで生きていてくれる方がよかった。
後日、ばぁばにばれた。
当時は家に、落ち葉や燃やせるごみを焼くための場所があったが、そこにバラがないことに気づいたばぁばに、
「どこに捨てたの」と聞かれた。
川へ流した、とは言えない。
「河原に投げて捨てた」
そう答えたら、ばぁばはバラと同じくらいの長さの棒を持ってきた。
「じゃあ、投げてみて」
言われた通りに棒を投げると、その棒が落ちた辺りを一緒に探すことになった。
ママは心の中で、「川に流したんだから、見つかるわけないんだけどな」と思いながら、ちゃんと探すふりをした(笑)。
流したなんて、やっぱり言えなかった。
大人になった今なら、ばぁばの怖さは分かる。
大切な人が病気で、縁起でも何でも、悪いものにつながりそうなら遠ざけたかったのだと思う。
でも、ばぁばの気持ちが分かったからといって、あの日の子どもの悲しみまで消さなくていい。
ばぁばには、ばぁばの怖さがあった。
子どものママには、燃やしたくないほど大切なバラがあった。
両方、本当だった。




