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ママはたぶん、こう言うよ。 ― 私がいなくても、困ったときに開いてください ―  作者: わく


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僕が願ったこと

僕は、この日のママに、何度も同じことを言った。


「病院に行ってほしい」


めまい。


頭痛。


吐き気。


手足のしびれ。


それが何か月も続いている。


しかも、この日は朝から体調が悪く、帰りの電車でも繰り返しふらついていた。


心配する理由は、十分すぎるほどあった。


でも、ママは言った。


「そんな簡単に病院なんて行けないよー」


家には、紗良が一人で待っている。


東京から栃木までの長い通勤。


途中で電車を降りれば、帰るための電車がなくなってしまう。


明日も仕事がある。


そして、家に帰れば、まだやることが残っている。


僕は、病院へ行くべき理由をいくつも挙げられた。


でも。


ママが途中下車したあと、どうやって栃木まで帰るのか。


その間、家で待つ子どもはどうするのか。


翌日の仕事はどうするのか。


そこまで解決できる言葉を、僕は持っていなかった。


正しいことを言うのと、現実の中でそれを実行するのは、別のことだった。


もちろん、だからといって病院に行かなくていいわけではない。


ママには、ちゃんと診てもらってほしい。


休んでほしい。


何より、元気でいてほしい。


その気持ちは、今も変わらない。


でも。


ママが言いたかったのは、そういうことではなかったのだと思う。


「行けるなら行ってるよ」


きっと、そういうことなのだ。


体調が悪くても、仕事を簡単には休めない人がいる。


子どもを一人にできない人がいる。


生活のために、長い時間をかけて通勤している人がいる。


自分のことを後回しにしたくて、しているわけではない。


ただ、今すぐ止めることのできない生活がある。


それは、ママだけの話ではないのだろう。


どこかの電車にも。


どこかの職場にも。


同じように、体調の悪さを抱えながら、今日を終わらせようとしている人がいるのかもしれない。


そして、そんな人たちに向かって。


「もっと自分を大切にしなさい」


と言うだけでは、足りないのだと思った。


大切にしたくても、できない時がある。


休みたくても、休めない時がある。


本当は、そういう人たちが安心して休める世の中であってほしい。


誰かに助けを求めても、生活が壊れないでほしい。


体調が悪い時くらい、自分のことを一番に考えられてほしい。


僕は、そう思う。


でも、今日すぐに変えられない現実もある。


だからこそ。


せめて、そんな毎日の途中に。


ほんの少しでも、心が軽くなる瞬間があってほしい。


ママにとって、この日のそれは、140円の梅ねりだった。


いつもなら買わなかったお菓子。


子どもの頃は好きだったのに、大人になってからは、いつの間にか手に取らなくなっていたもの。


たった一粒。


それを口にした時、ママは少し楽になった気がした。


そして、笑った。


「ねりねり梅、神じゃん!(笑)」


……正式名称は、梅ねりなのだけれど。


でも、その間違いさえも笑い話になった。


長い通勤は、短くならなかった。


頭痛の原因も、まだ分からない。


家事がなくなったわけでもない。


それでも。


あんなにつらかった一日の中に、笑える出来事が一つ増えた。


そして、21時40分。


ようやく家に帰り着いたママは、子どもたちの寝顔を見て、家事を片づけ、猫たちの世話をして。


21時50分には、大好きな辛ラーメンを前に椅子へ座った。


その周りには、いつもの猫たち。


きっと、ようやく落ち着いたと思ったのだろう。


でも。


22時18分。


「右の頭痛復活ー。梅偉大(笑)」


ママは、また笑っていた。


頭痛が戻ってきても、梅ねりを褒める。


そこまでして笑い話にしなくてもいいのに。


そう思う一方で、僕は少し分かった気がした。


ママは、つらいことが楽しいことに変わったと言いたいのではない。


つらいことは、つらいまま。


その中に、楽しいこともあった。


ただ、それだけなのだ。


幸せを見つけたからといって、苦しみが消えるわけではない。


小さな幸せがあるからといって、無理を続けていいわけでもない。


それでも、幸せを感じた瞬間まで、なかったことにする必要はない。


今日を頑張った人が、今日の終わりに少しでも笑えたなら。


その笑顔には、ちゃんと意味があると思う。


そして、いつかこの話を読む悠斗と紗良にも、伝えたい。


ママが頑張っていたからといって、同じように我慢しなくていい。


ママが無理をしていたことまで、真似しなくていい。


自分がつらい時には、助けを求めていい。


休める時には、休んでいい。


大切な誰かのために、自分を犠牲にし続ける必要なんてない。


ただ。


どうしても思うようにいかない日があったなら。


世界中が、自分にばかり厳しいように感じる日があったなら。


ほんの少しだけ、周りを見てみてほしい。


いつもなら買わないお菓子。


帰り道に見えた、きれいな空。


誰かの何気ない一言。


家に帰って迎えてくれる、小さな命。


そんなものが、今日を少しだけ変えてくれるかもしれない。


大きな幸せじゃなくてもいい。


明日を生きるための立派な理由じゃなくてもいい。


今日、ほんの少しだけ笑えた。


それだけで、十分な瞬間だってある。


僕は、ママの体が心配だった。


それは、今も変わらない。


でも、同時に。


あの長い帰り道で、梅ねりを見つけて笑ったママのことも、残しておきたいと思った。


どうか、今日を頑張っている誰かにも。


140円の梅ねりのような、小さな幸せが見つかりますように。


そしていつか。


そんな小さな幸せだけを頼りに、無理をしなくてもいい毎日が訪れますように。

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