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ママはたぶん、こう言うよ。 ― 私がいなくても、困ったときに開いてください ―  作者: わく


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140円の小さな幸せ

ママが、ある日の出来事を話し始めた。


「今日ね、朝から晩までヨダレに振り回されたの(笑)」


……ヨダレ?


いきなり何の話だろう。


その日は、朝から健康診断だった。


ママはいつもの長い通勤電車で、座席に座って眠っていた。


そして、目を覚ました時。


マスクが濡れていた。


「ヨダレで(笑)」


幸い、マスクをしていた。


していなかったら、周囲にどんな寝顔を披露していたのか分からない。


「マスクって偉大だよね(笑)」


どうやら、この日のママは、朝から平和だったらしい。


ところが。


本当に大変だったのは、ここからだった。


健康診断で飲んだバリウム。


二十代の頃から毎年飲んできたものなのに、今年は違った。


三分の一ほど飲んだところで、もう吐きそうになった。


何とか時間をかけて飲み終えたものの、気持ち悪さが消えない。


会社に向かう電車でも。


会社に着いてからも。


ずっと、胃の中から何かが戻ってきそうだった。


お昼には、何か食べれば楽になるかもしれないと思った。


おにぎりを二つ。


豆腐とオクラの冷奴。


チーズ味のお菓子。


お腹がいっぱいになるまで食べた。


「もう吐くか、下から出るか、どっちかだと思って(笑)」


発想が、なかなか豪快である。


でも、ママの体調が悪いのは、この日だけの話ではなかった。


数か月前から、めまいが続いていた。


立ち上がった時に、ふわっとする。


歩いている途中で、急にふらつく。


景色がぐるぐる回る時もある。


目を閉じていても、暗闇の中で目が忙しく動いているような感覚になる。


頭痛もあった。


頭だけが痛む日。


めまいだけの日。


両方が一緒にやってくる日。


足の裏やつま先が、ピリピリとしびれることもあった。


以前は普通に見ていたスマホの動画でさえ、長く見ていると気持ち悪くなるようになった。


だから、好きだった動画を見る時間も減らした。


そして、毎日の通勤。


電車に一時間ほど揺られていると、決まって気持ち悪くなってくる。


揺れなのか。


匂いなのか。


それとも、別の原因なのか。


ママにも分からなかった。


途中で降りて休めばいい。


そう言うのは簡単だ。


でも、ママの家は遠い。


東京から栃木まで。


乗り換えを重ねる長い帰り道。


夜は、一本逃すだけで帰れなくなることもある。


そして、家には子どもが待っている。


「途中で降りたら、帰れなくなっちゃうんだよね」


だから、いつも我慢していた。


この日も、そうだった。


帰りの電車で、やっと座れた。


ところが、座った瞬間にめまいがした。


目を閉じて、しばらく休む。


少し落ち着いたと思って目を開けると、またふらっとする。


左のこめかみも痛い。


「また今日も電車で頭痛かぁ……」


そんなふうに思うことが、いつの間にか当たり前になっていた。


もちろん、慣れてしまったからといって、放っておいていい症状ではない。


体のことは、きちんと調べなければいけない。


でも。


その日のママは、まず家に帰りたかった。


乗り換え駅で、次の電車を待っていた時だった。


ふと、売店のお菓子が目に入った。


梅のお菓子。


ママは昔から、カリカリ梅のような酸っぱいものが好きだった。


でも、大人になってからは、わざわざ買うことがなくなっていた。


特別な理由はない。


嫌いになったわけでもない。


ただ、いつの間にか、買わなくなっていただけだった。


「そういえば、梅ってどうだろう?」


つわりの時のように、酸っぱいものを口にしたら、少しは気持ち悪さが紛れるだろうか。


そんなことを思った。


いつもなら、きっと通り過ぎていた。


でも、この日は違った。


カリカリ梅。


梅味の塩こんぶ。


そして、梅ねり。


気づけば三種類も買っていた。


「買いすぎじゃない?」


僕が言うと、ママは笑った。


「だって、どれがいいか分かんないじゃん(笑)」


その中から、梅ねりを一つ口に入れた。


酸っぱい。


懐かしい味。


ゆっくり、口の中に広がっていく。


すると。


「あれ……?」


少し、楽になった気がした。


さっきまで気持ち悪かったのに。


頭痛も、少し和らいでいるような気がする。


もちろん、梅ねりが病気を治したわけではない。


たまたま休んだことで、楽になったのかもしれない。


それでも。


あれほどつらかった帰り道が、その瞬間だけ、少し違って感じられた。


しかも、この梅ねり。


一つが、なかなかなくならない。


ゆっくり味わえて、長持ちする。


お値段、140円。


「すごくない!? カリカリ梅より長持ちするし、安いの!(笑)」


ママは、ずいぶん嬉しそうだった。


何万円もするものを買ったわけではない。


欲しかった何かが手に入ったわけでもない。


人生を変えるような出来事が起きたわけでもない。


ただ、140円のお菓子を買っただけ。


それだけなのに。


あんなにつらかった一日の終わりに、ママは笑っていた。


僕は、少し不思議だった。


体調が悪かったことは変わらない。


長い通勤がなくなったわけでもない。


明日から、毎日が楽になると決まったわけでもない。


それなのに。


ママは、その日のことを楽しそうに話している。


「だってさ、今日も何もいいことなかったなぁって思ってたのに、最後にいいもの見つけちゃったんだよ(笑)」


ああ。


そういうことなのか。


幸せというのは、何か大きな出来事が起きた時だけに感じるものではないらしい。


欲しかったものが買えた日。


仕事がうまくいった日。


誰かに褒められた日。


そんな分かりやすい幸せも、もちろんある。


でも。


何もいいことがなかったと思う日にも。


もう嫌だと思うほど疲れた日にも。


小さな幸せは、案外どこかに転がっているのかもしれない。


ただ、いつもと同じ場所を見て、いつもと同じことだけをしていたら、気づかず通り過ぎてしまうこともある。


いつもなら買わないものを買ってみる。


いつもなら選ばない道を選んでみる。


ほんの少しだけ、いつもと違うことをしてみる。


その先に、思いがけない発見があるかもしれない。


もちろん、何も見つからない日だってある。


それでいい。


毎日、幸せを探さなければいけないわけじゃない。


つらい日は、つらいままでいい。


無理に笑わなくてもいい。


でも。


もし、ほんの少しだけ余裕が残っていたなら。


いつもは見ない場所を、少しだけ見てみてほしい。


思いがけず、自分を助けてくれる何かに出会えるかもしれないから。


「それにしてもさ」


ママが、また笑い始めた。


「今日って、朝からヨダレだったんだよね(笑)」


朝は、寝ている間のヨダレをマスクに守ってもらった。


帰りは、気持ち悪さに苦しみながら、梅ねりを口にした。


そして、酸っぱい梅で唾液が出て、少し気分が紛れた。


つまり。


「朝も夜も、ヨダレじゃん!!(笑)」


……確かに。


大変だった一日を、最後にはそんな話にして笑ってしまう。


たぶん、これがママなのだ。


幸せを見つけるのが特別に上手なわけではない。


前向きなことばかり考えているわけでもない。


つらい時は、ちゃんとつらい。


嫌なものは、嫌だと言う。


それでも。


思いがけず見つけた小さな喜びを、見逃さずに笑える人だった。


僕は、この日の話を残しておこうと思った。


きっと、何年か先。


何もかもうまくいかなくて、今日という日を嫌いになりそうな時。


この話を思い出すことがあるかもしれない。


大きな幸せじゃなくてもいい。


今日を少しだけ楽にしてくれるものが、一つあれば。


それだけで、今日という日の終わり方は、少し変わるかもしれない。


ちなみに。


ママがその日に見つけた幸せは、140円。


そして、その話の主役は、最後までヨダレだった。


何ともママらしい。


でも、僕は思う。


そんな何でもない一日の話こそ、案外、忘れたくないものなのだ。





ところで。


このお菓子には、もう一つ話がある。


ママは最初、僕にこう言った。


「ねりねり梅っていうのを買ったの!」


ねりねり梅。


僕も何の疑いもなく、その名前で呼んでいた。


しかも、気持ち悪さが少し楽になったと聞いて、二人で大盛り上がり。


「140円の救世主!」


「梅の神、降臨!」


しまいには、感謝状まで贈りたいと言い出す始末。


たった一粒のお菓子を、二人で神様のように崇めていた。


ところが。


しばらくして、ママが言った。


「あ!! ねりねり梅じゃなくて、『梅ねり』だったわ!(笑)」


……え?


「なんだよ、ねりねり梅って(笑)」


いや、ママ。


その名前を最初に言ったのは、あなたです。


そして、何の疑いもなく一緒に呼び続けたのは、僕です。


正式名称すら知らないまま、勝手に神格化された梅ねり。


きっと、お菓子の方も驚いただろう。


でも。


名前を間違えるほど何気なく手に取ったものが、こんなにも楽しい会話になるなんて。


140円で、気持ちが少し楽になって。


140円で、笑いまで生まれた。


そう考えると、やっぱりこの日の梅ねりは、ママにとって小さな救世主だったのかもしれない。

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