「ねぇママぁ〜」
最初に残したいのは、ママの一番つらかった話ではない。
今の家の音だ。
「ねぇママぁ〜」
紗良は、特に用事がなくてもママを呼ぶ。
「んー?」
「ねぇママぁ〜」
「なぁに?」
学校の日でも何回か。休みの日ならもっと。
何回くらい? 僕が聞くと、
「えー! 学校の日は五回くらい? 休みは十回くらい?? 数えたことないから分からない(笑)」
だった。
数えていない。それくらい、普通にそこにある音だから。
紗良の話には、あまり境界線がない。
学校
友達
給食
授業
登下校
シール
おもちゃ
タブレットで見た動画
今作っているもの
本人が「話したい」と思った瞬間には、もう口から出ている。
「正直、相槌だけで会話成立してる(笑)」
ママが「うん」「へえ」「そうなんだ」と返している間に、勝手に
話は進む。気づけば別の話題になっている。
仕事中でも止まらない。
「ちょっと静かに仕事させて(笑)」
と言っても、次に話したいことが出てくれば、もう出ている。
なのに、紗良が静かだと、今度はママの方から話しかける。
学校の日なら、
「今日どうだったの?」
休みの日なら、
「なにしてるのー?」
すると、紗良が笑う。
「マシンガントーク始まるのよー(笑)」
結局、うるさくても話す。静かでも話す。
だから僕は思った。この家は、話すこと自体が愛情表現なのかもしれない。
ある夜。紗良は、かくれんぼの話をしていた。
学校で黒いところに隠れた。
フードもかぶった。
絶対バレていないと思ったのに、友達に最初に見つかった。
次は木に隠れた。
また一番最初に見つかった。
逃げながら隠れても、また見つかった。
「嘘でしょ? なんでそんなにかくれんぼ下手っぴなの?」
でも保育園の頃は上手だった。
ロッカーの中に入って、自分のコートをうまくかけて、誰にも見つからなかった。
勝ったと思ってドアを開けたら、みんなが探していた。
そこから突然、給食の話になった。
ポテトサラダ
みかん
外側は柔らかいのに、中が少し凍っていてシャリシャリするみかん
そこから正月の話へ飛んで、
梨
りんご
いちご
バナナ
ケーキ
そして、いちごゼリー。
「さっちゃんはいちごゼリー作るの」
「ママ、いちごゼリー食べない」
「食べないの?」
「いちごゼリーはいちごとは認めない」
……何を言っているんだろう。
紗良もそう思ったかもしれない。
「なんで?」
「だってプルプル食感になっちゃうじゃん。
いちごはなめらか食感じゃないといけないの」
「じゃあゼリー作れないじゃん」
「ママはいちごババロア作るよ」
「それじゃないの! さっちゃんはゼリーが作りたいの!」
……どうでもいい。
ものすごくどうでもいい。
なのに二人とも真剣である。
そのうち時計は 21 時半になった。
「もう 21 時半だよ。大変、さっちゃん」
まだ話す。
「ギューして寝んね」
まだ喋る。
「ねんね、ねんね」
喋る。
「しゃべりません」
喋ろうとする。
「もうおしまい。ねんね、ねんね」
最後は、紗良がいつもの場所へ来る。ママの胸。紗良は、生まれた時から、ママの胸に顔を埋めて寝るのが好きだった。
ママが抱きしめる。
「学校も頑張って、雨の中歩いて、今日も一日いい子で頑張りまし
た。ご飯もペロリと食べて。いい子いい子。ねんね」
しばらくして、紗良が言った。
「ママも今日お仕事頑張って……えら……」
「えらい」まで言う前に、声が寝息へ変わった。
「今寝ました(笑)」
何も起きていない。
大事件でもない。
でも、こんな夜ほど、二十年後には完全に再現できない。
給食の名前は忘れる。
どんな順番で話題が飛んだかも忘れる。
でも、胸に顔を埋めて眠ったことくらいは、残しておきたい。




