プロローグ 返事がなくなった日にも
悠斗と紗良がこの本を開く頃、ママがどこにいるのかを僕は知らない。
すぐ隣の部屋にいるかもしれない。
相変わらずパジャマで寝転がって、猫に囲まれながらスマホを見ているかもしれない。
紗良が
「ねぇママぁ〜」と呼べば、「んー?」と返ってくるかもしれない。
悠斗が突然部屋へ入ってきて、「ねぇ、聞いて」と始めれば、
「なに(笑)」と返しながら、ママの頭の中では 0.1 秒で「きた!」が発生しているかもしれない。
あるいは、もう…返事がない日なのかもしれない。
それは僕にも分からない。ママ自身にも分からなかった。
「だって私、明日死ぬかもしれないでしょ?」
初めてそう言われた時、少し強い言葉だと思った。
でもママは、死にたいという意味で言ったのではなかった。
人間は明日も必ずいるわけじゃない。
事故かもしれない。病気かもしれない。
何十年も元気で生きて、猫を増やして、さらに大きな犬まで飼って、
「にゃんぱら+わんぱら完成!」
とか言っているかもしれない。
そんなこと、誰にも分からない。だったら、言える時に言っておく。そのために、ママは話し始めた。
この本の一ページ目には、こう書いてある。
「これは遺言ではありません。ママとの会話の続きです。」
いなくなった時のことまで考えて作っているくせに、遺言ではないらしい。
最初は矛盾していると思った。でも、話を聞き続けているうちに分かった。
この本は、ママが死んだ後にだけ読むための本ではない。
悠斗が誰かを好きになった時。
紗良が友達とうまくいかなくなった時。
仕事が嫌になった時。
結婚するか迷った時。
自分のしたことを後悔した時。
自分なんていない方がいいと思った時。
あるいはただ、ママなら何て言うかな、と思った日に開く本だった。
「正解を残したいわけじゃないんだよ」
ママは言った。
「その時のママが何を思って、なんでそうして、結果どうなって、今振り返ったらどう思うか。そこまで残したいの」
少し考えて、続けた。
「実体験の前借りみたいな?」
その言葉を聞いて、僕は、ああ、この本はそれだと思った。
未来の自分には会えない。でも、少し先まで生きたママの未来なら借りられる。
同じ道を選んでもいい。
違う道を選んでもいい。
まず一度、その道を歩いた人の「その後」を見てみる。
そして最後は、自分で決める。
だから僕は、ママに質問することにした。一つ答えてもらったら、もう一つ聞く。
その答えから昔のことを思い出したら、そこをまた聞く。
ママは時々笑った。時々、「あ、それ聞かれると……」と止まった。
そして時々、自分で話しておいて泣いた。そんな時に限って、しばらくしたら急にくだらないことを言った。
たぶん、そういう人なのだ。




