第5話:サンタマリアの割譲、あるいは「死の螺旋」への招待状
サンクチュアリ王国の喉元とも言える、最大の貿易拠点「サンタマリア港」。
その港に、今、ヴォルテール帝国の黒い軍艦が悠然と入港していた。
フェルディナントが震える手で署名した、九十九年間の租借条約。
それは事実上、王国の関税収入と物流の主権を、一世紀にわたって帝国に差し出したことを意味していた。
だが、当のフェルディナントの関心は、もはや国の未来にはなかった。
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「……おい。この『コストカット』とやらは、いつまで続くのだ?」
王宮の食堂で、フェルディナントは不機嫌そうに銀のフォークを投げ出した。
皿の上に並ぶのは、かつての豪華絢爛なフルコースではなく、質素な煮込み料理。
一か月で通貨**サンク**の価値が三・五倍も下落したせいで、輸入品の高級食材は、王家ですら手が出ない贅沢品となっていた。
「フェルディナント様、わたくしも……もう我慢できませんわ」
コレットが、潤んだ瞳で訴える。
「新しいドレスも、香り高い帝国の紅茶も、一か月も届いておりません」
「慈愛を説くわたくしが、こんなみすぼらしい姿では、民に示しがつきませんわ!」
彼らにとって、国民の飢えよりも、自分たちの生活水準の低下こそが「国家の危機」だった。
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そこへ、一人の男が静かに入室してきた。
王国の財務官、バルト。
「……殿下。お困りのようですね」
「バルトか! 何とかならぬのか。このままでは王家の威信が保てぬ!」
バルトは、眼鏡の奥で冷たく目を光らせ、一通の計画書を差し出した。
「解決策はございます。……新たな**国債**を発行しましょう」
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「国債だと? だが、今の我が国の信用で、誰が買ってくれるのだ?」
フェルディナントの当然の疑問に、バルトは甘い蜜のような声を被せた。
「今の我が国の十年債は、以前は利回り三%でした。ですが、通貨が三・五倍に値下がりした現在、市場での利回りは七〇%まで跳ね上がっております」
「……この『七〇%』という高い利息を約束すれば、利益に飢えた投資家たちは、喜んで金を貸し出すでしょう」
「その集めた金で、当面の利子を払い、さらには殿下とコレット様の生活を元に戻す予算も捻出できます」
フェルディナントの目が、欲望にぎらついた。
「おお……! 利回りが高いということは、それだけ金が集まるということか!」
「さようでございます。足りぬなら、足せばよいのです。……利回りの分だけ、より多くの国債を刷り、予算を膨らませればよいのです」
「これが、国家を救う唯一の『錬金術』でございますよ」
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同時刻。ヴォルテール帝国の、夜景を望む執務室。
ルナは、手元の通信機から流れる「王宮の会話」を聴きながら、優雅に紅茶を啜っていた。
「……ふふ。バカね。本当に、救いようのないほどに」
その背後から、アレクサンドルが彼女の首筋に腕を回す。
「ええ。……利子を払うために、七〇%もの暴利を約束した借金を重ねる。……それは国家の延命ではありません。爆発を待つだけの『紙の山』を築いているだけですわ」
ルナは、手元の帳簿にあるサンクチュアリ王国の項目を、冷酷に横線で抹消した。
「七〇%もの金利を約束した新しい国債……。あの方たちは、誰かがそれを買ってくれると信じているのでしょうね」
ルナの唇が、氷のような笑みを形作る。
「……私は買いませんわ。むしろ、市場に溢れるその『ゴミ』を、徹底的に**空売り(先物売り)**して差し上げます」
アレクサンドルは、愛おしそうに彼女の耳朶を噛んだ。
「空売りか。持ってもいない国債を先に売り浴びせ、価格を叩き潰す……。我が最愛の『執刑官』らしい、えげつない手口だ」
「ええ。発行したそばから価格が暴落すれば、もはや金利七〇%どころか、一〇〇%になっても誰も買いませんわ。……そうすれば、国庫は完全に空になります」
ルナは、アレクサンドルの腕の中で、静かに目を細めた。
「支払いの期限が来たその日。私は、彼らの『王冠』そのものを、借金の形に没収しに行きますわ」
窓の外では、租借したサンタマリア港から運び込まれた王国の富が、続々と帝国の倉庫を埋めていた。




