第1話:死に至る個別インフレ、あるいは六つの星の救済
神聖テレジア教国の首都、その外縁部にある第三階級『贖う者』向けの配給所。
「次。神聖教国貨幣を出しなさい」
鉄格子の向こうで、神父が冷酷な声で告げる。
列に並んでいた一人の難民の男が、震える手で赤銅色の硬貨を差し出した。
教国の基準物価は厳密に定められている。
神聖教国貨幣一枚につき、カビの生えたパン一切れ。
五枚で、ようやく黒パン一斤だ。
だが、それはあくまで「額の『*(アスタリスク)』が一つだけの者」に適用される基本レートに過ぎない。
教国の配給価格は、額に刻まれた星の数だけ基本料金が掛け算(乗算)される仕組みなのだ。
男の額には、すでに三つの『*』が刻まれていた。
「お前の額の星は三つ。……パン一斤の価格は、基本料金五枚の三倍。十五枚だ」
「そ、そんな……! 私は今日、朝から晩まで血を吐く思いで働いて、ようやく八枚稼いだんです……! どうか、せめて子供の分だけでも……」
「教義への違反で星を増やした己の罪の深さを呪いなさい。奉納金が足りないなら、神の恵み(パン)は与えられません」
男は絶望に泣き崩れた。
男は先日、過労で倒れた際に祈りの時間を逃した罪などで星が一つ増え、さらに配給の列を乱した罪で星の線が追加され、ついに三つ目の星が完成してしまったのだ。
「お願いです、どうか……っ!」男が鉄格子にすがりつこうとした、その時だった。配給所の横の街道を、豪奢な馬車が通りかかった。
窓からは、第一階級『施す者』の証である星の刻印を胸元に輝かせた男爵令嬢、コレットが顔を出している。
「皆様、今日も愛のために祈りましょうね!」
彼女の撒き散らした花びらの一枚が、泥水に落ちて跳ね返り、コレットの馬車を護衛していた神父の純白の法衣を汚してしまった。
「ああっ!? 貴様、何ということを! 第一階級たる『施す者』の通行を妨害し、あろうことか泥を跳ねさせるとは!」
神父は、偶然そばで泣き崩れていた男を怒鳴りつけた。
「ち、違います! 私は何も……!」
「言い訳など無用! 第一階級への侮辱と加害行為は最悪の重罪! 規定により、額に『*』を二つ追加する!」
神父が手にした杖の先が赤熱し、男の額に押し当てられる。
肉の焦げる音と、男の絶叫が響き渡った。
「ああっ、ああああぁぁぁッ……!」
これで男の額の星は五つ。
パン一斤の価格は基本の五倍、二十五枚に跳ね上がった。
一生祈り(労働)を捧げても決して贖うことのできない、完全なる飢餓の宣告である。
「理不尽だ……こんなの、あんまりだ! お前たち教国は、悪魔だ!!」
完全に心が壊れ、自暴自棄になった男は、神父に向かって石を投げつけた。
その瞬間、冷酷な鐘の音が配給所に響き渡った。
「第一階級への直接的な暴力行為を確認。……額への刻印、さらに一つ追加。合計六つ」
神父は冷酷に見下ろし、懐から銀の短剣を取り出した。
「星が六つ揃いし者。……その魂は現世の祈りでは救済不可能。よって、教義に基づき『死による浄化』を与える」
「や、やめ……っ!」
銀の刃が閃き、男の首が地面に転がった。
それは、現世での教化が限界に達したと教国が判断した瞬間の、血に塗れた異端者への断罪であった。
「かわいそうに……。現世では愛を受け入れられなかったのね。来世では、神の愛に包まれますように」
馬車の窓からその光景を見ていたコレットは、両手を組んで心から哀れむように祈りを捧げた。
自分が花を撒いたことが引き金になったことなど、微塵も気づいていない。
***
「――以上が、教国に潜入した我が帝国の諜報部からの報告です」
ヴォルテール帝国の中央銀行、副総裁室。
最新の軍用暗号機から弾き出された分厚いレポートを読み上げながら、バルトは静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
かつてサンクチュアリ王国でフェルディナント王太子に「冷たい」と切り捨てられた平民上がりの財務官は、今や帝国資産接収局長という重職に就き、帝国の洗練された軍服を完璧に着こなしていた。
「個人の罪業によって個別の物価を乗算させ、返済不能になれば物理的に消去する……。実に非効率で、悪趣味な搾取システムですね」
ルナ・フォン・グラウスは、バルトの報告書を受け取ると、深い溜息をついた。
「ええ。市場の需要と供給を完全に無視した、マクロ経済への冒涜ですわ。……ですがバルト局長。このシステムには、致命的なバグが存在します」
ルナは手元の神聖教国貨幣を、細い指で弾いた。
「教国内ではパン一斤が五枚から二十五枚まで『人為的に』変動する。しかし、この金属の塊自体の本質的な価値は変わっていません。……ならば、外部から圧倒的な資本を流し込み、その固定された為替と物価の歪みを突けば、教国経済は内部から爆発しますわ」
「裁定取引ですね。……手配はすでに整っております、ルナ副総裁。旧サンクチュアリ王国の国境沿いに、帝国軍の補給部隊を装った『大量の小麦』を積んだ輸送列車を待機させてあります」
バルトは完璧なタイミングで、帝国領内の兵站ルートの地図を提示した。
「素晴らしい手際ですわ、バルト。……あなたは本当に、私の期待を一度も裏切りませんね。王国であなたの才能が埋もれていたことは、人類の損失でしたわ」
ルナが心からの賛辞を贈ると、バルトは少しだけ頬を緩め、深く一礼した。
「すべては、私という資産を正しく評価してくださった、あなたの『真の優しさ』に対する利息に過ぎません」
身分や血筋ではなく、ただ能力のみを評価し、重用する。冷徹な悪役令嬢に見えるルナのその実力主義こそが、理不尽な身分制度に囚われていたバルトを救済し、絶対の忠誠を引き出していたのだ。
「美しい主従関係だ。嫉妬でこの建物を吹き飛ばしてしまいそうになるよ」
ふと、執務室の重厚な扉が開かれ、漆黒の軍服を纏ったアレクサンドル・フォン・ヴォルテール皇帝が姿を現した。
「陛下……! 申し訳ありません、すぐに席を……」
バルトが慌てて頭を下げて退出すると、アレクサンドルはルナの背後に回り込み、その華奢な肩を抱き寄せた。
「あの狂った宗教国家に、ついに空売り(ショート)を仕掛けるつもりだな、ルナよ。……必要な軍事費と物資は、帝国の全予算を投じてでも私が用意しよう」
「よろしいのですか、アレクサンドル様。教国を怒らせれば、大陸中を巻き込む『聖戦』になりかねませんわよ?」
ルナが妖艶に微笑んで見上げると、覇王は彼女の唇に熱く噛み付くように口付けた。
「君という最高級の資産を満足させられるなら、大陸の一つや二つ、焦土と化しても安いものだ。……さあ、見せてくれ。君のその美しい頭脳が、あの偽りの愛をどうやって物理的に破産させるのかを」
神聖テレジア教国の『六つの星の救済』という名の狂気。それに対する、冷徹なる財務卿の姫と覇王の容赦のない経済戦争が、ついに幕を開けた。




