幕間8:神聖なるカースト制度、あるいは無償の愛の請求書
神聖テレジア教国の朝は、美しい賛美歌と、鉄の鎖が擦れる重々しい音で始まる。
教国の首都、その外縁部に広がる広大な「聖なる農場」。
そこでは、額に『*(アスタリスク)』の焼き印を押された数万人の人々が、泥に塗れて土を耕していた。
彼らの多くは、ハイパーインフレで崩壊したサンクチュアリ王国から逃げ出してきた難民たちである。
「急げ! 祈りの時間に遅れるぞ!」
鞭を持った神父の怒声が飛ぶ。
難民の一人である男は、ふらつく足で立ち上がりながら、手の中にある赤銅色の硬貨を力なく見つめた。
彼らが一日中、血を吐くような思いで働いて得られるのは、たった数枚の神聖教国貨幣だけだ。
教国には、神の教えを装った極めて重層的で冷酷な「四つの階級」が存在した。
第一階級:『施す者』
マリア・テレジア13世を頂点とする上位聖職者たち。
彼らの胸元には、教国の正当な支配層であることを示す『*』の刻印が深く刻まれている。
彼らは神聖教国貨幣を発行する権利を持ち、一切の労働をせず、難民たちに「パン(借金)」を貸し付けることで莫大な富を搾取する教国の支配層(債権者)である。
第二階級:『祈る者』
教国の一般市民たち。
彼らもまた、胸元に『*』の刻印を持つことを誇りとしている。
彼らは教会へ多額の寄付(税金)を納めることで「神の救済」という見返りを得ていると信じ込まされている。
彼らは下位の階級を見下すことで精神的な優越感を保ち、教国の封建システムを強固に支える養分(出資者)となっている。
第三階級:『贖う者』
飢えから逃れるため、無償のパンに手を出してしまった難民たち。
額に『*』を焼き印として刻まれた彼らは、人間ではなく「教会の備品(債務奴隷)」として扱われる。
第四階級:『持たざる者』
テレジア教徒ではない者、すなわち額にも胸元にも『*』の刻印を持たない完全な部外者や異教徒たち。
教国において、彼らは「教化すべき未文化の野蛮人」であり、「救済を待つ哀れな者たち」と認識されている。
見つかれば即座に「神の愛を与える」という大義名分のもとに捕獲され、第三階級よりも過酷な死の労働(教化)へと放り込まれるのだ。
このカーストの最も恐ろしい点は、重層的な封建主義と宗教の皮を被った、その「完全な閉鎖経済網」にあった。
(くそっ……こんな硬貨、外の世界じゃただの鉄くずじゃないか……!)
男は絶望に顔を歪めた。
彼らに支払われる神聖教国貨幣は、教国の外(国際市場)では一切の価値を持たない独自通貨である。
しかも、教国内にある教会直営の配給所は物価が異常に高く設定されており、男が一日働いて得た神聖教国貨幣では、カビの生えた黒パン一つと、薄いスープしか買えないのだ。
労働すればするほど、教会の直営店でお金を使わされ、永遠に教国に富が還流し続ける仕組み。
それは、フェルディナントが語っていた無計画な「慈愛」が行き着く果て。
情緒と信仰でコーティングされた、逃げ場のない完璧な「経済的搾取システム」であった。
その時、農場の横を通る白亜の街道を、煌びやかな馬車が通り過ぎていった。
馬車の窓から顔を出しているのは、豪奢なドレスを着飾ったコレットである。
その大きく開いたドレスの胸元には、彼女が教国の支配階級である何よりの証拠――『*』の刻印が、白く滑らかな肌に誇らしげに刻まれていた。
「皆様、今日も愛のために祈りましょうね!」
コレットは無邪気な笑顔で、窓から美しい花びらを撒き散らした。
彼女は自分が『施す者』としての特別待遇を受けていることにも、眼下の難民たちが自国の元領民であることにも気づいていない。
ただ「マリア様は野蛮で可哀想な人々に仕事とパンを与えて教化してくださる、なんて愛に溢れた素晴らしい国なのだろう」と、本気で信じて疑っていないのだ。
「ふざけるな……っ! お前が……お前とあの愚かな王太子が国庫を食いつぶしたから、俺たちはこんな地獄に……!」
男が恨み言を叫ぼうとした瞬間、隣にいた別の難民が慌てて彼の口を塞いだ。
「馬鹿、やめろ! 額の刻印が増えるぞ!」
「なんだと……!?」
「神への不満や教義への違反など、罪の深さに応じて額の刻印は勝手に増殖するんだ。小さな罪で棒線が一本刻まれ、それが交差して『*』が一つ完成するたびに、パンの値段が二倍になる仕組みなんだよ……!」
「に、二倍……!?」
「ああ。特に、第一階級『施す者』への侮辱は最悪の重罪だ。一撃で『*』が二つも追加される。……それはつまり、支払いが3倍に跳ね上がる『実質的な死刑宣告』を意味する」
男は弾かれたように自分の口を両手で覆い、ガタガタと震え出した。
「思想や感情まで、この額の傷で監視されてるんだよ、俺たちは。……おとなしく祈れ。永遠にな」
感情を奪われ、ただ機械のように土を耕すだけの奴隷たち。
彼らの背中に、コレットの撒いた美しい花びらが、残酷なほど無慈悲に降り注いでいた。
一方その頃。
ヴォルテール帝国の中央銀行副総裁室にて。
ルナ・フォン・グラウスは、教国から持ち出された数枚の神聖教国貨幣を机に並べ、冷たい瞳でその金属組成を分析していた。
「……なるほど。為替レートを完全に固定し、信仰という名目で労働力をタダ同然で買い叩く閉鎖経済。実に醜悪ですが、システムとしては理にかなっていますわ」
ルナはふふっ、と冷徹な笑みを零し、手元の書類に赤いインクで美しい線を引いた。
「ですが、閉じた経済圏ほど、外部からの『空売り(ショート)』に脆いものはありません。……教えて差し上げましょう。愛や信仰などという不確かなもので、数字の真理に勝てるはずがないということを」
彼女の背後には、圧倒的な武力を誇る帝国の軍旗と、アレクサンドル・フォン・ヴォルテール皇帝から託された天文学的な国家予算が控えている。
冷酷な財務卿の姫による、神聖テレジア教国という「巨大な詐欺システム」への、最も美しく容赦のない経済的報復の準備が、静かに始まろうとしていた。




