第2話:偽りの希望、あるいは星の堕ちる日
神聖テレジア教国の大聖堂。その裏手に広がる第三階級『贖う者』の居住区で、一人の老婆が歓喜の涙を流していた。
「おお……おおっ! 神よ、マリア様! ありがとうございます……っ!」
老婆の額には、かつて三つの『*(アスタリスク)』が刻まれていた。
だが、数十年にわたる過酷な労働と、自らの血肉を削るような奉納の末に、その額の烙印は昨日、ついにすべて消え去ったのだ。
そして今朝、老婆のシワだらけの胸元には、赤熱した鉄筆によって「一本の線」が刻まれていた。
「見ろ……! 胸に線が刻まれたぞ! あと五本線を重ねて『*』を完成させれば、俺たちも第二階級『祈る者』になれるんだ!」
周囲を取り囲む難民たちが、熱狂と羨望の眼差しで老婆を見つめる。
教国の階級は、完全に固定されているわけではない。
教義への絶対的な貢献を果たし、額の負債をすべて返済した者は、今度は胸元に「信仰の証(線)」を刻むことが許される。
その線が六本交差して一つの『*』となった時、彼らは晴れて第二階級へと昇級し、永遠の労働から解放されるのだ。
「私も……私ももっと祈らなければ! 睡眠時間など削って、もっと畑を耕そう!」
「ああ、神は我々を見捨ててはおられなかったのだ!」
難民たちの目に宿っていた暗い絶望は、いつの間にか「狂信的な希望」へとすり替わっていた。
この胸元の刻印システムこそが、教国が奴隷たちを支配する最悪の鎖であった。
絶対に届かないと分かっている絶望よりも、『あと少し頑張れば報われる』という偽りの希望を与えられた方が、人間は自らを限界まで搾取してしまうからだ。
しかし、その熱狂の居住区から少し離れた大聖堂の地下牢では、全く逆の「絶望」が繰り広げられていた。
「お、お待ちくださいマリア様! 私はずっとあなたに忠誠を誓ってきたではありませんか!」
冷たい石の床に這いつくばり、悲痛な叫び声を上げているのは、純白の法衣を着た恰幅の良い男だった。
第一階級『施す者』の地位にあり、教国でも有力な派閥のトップであったはずの枢機卿である。
彼を見下ろしているのは、聖女マリア・テレジア13世。
その背後には、無邪気な笑顔で花冠を編んでいるコレットの姿があった。
「忠誠、ですか」
マリアは慈愛に満ちた、しかし絶対零度の微笑みを浮かべた。
「あなたは教会の備品を勝手に売却し、あろうことか私への上納金を誤魔化しましたね。……それは『愛』からの逸脱です。愛を持たぬ者に、第一階級を名乗る資格はありません」
「ひっ……! お、お許しを! 派閥の維持費が……! ああっ、やめろ!」
屈強な異端審問官たちが枢機卿を押さえつけ、その胸元を乱暴にはだけさせる。
そこには、支配層の証である『*』の刻印が誇らしく刻まれていた。
「ジュッ」という悍ましい音と共に、焼けた鉄の鏝が男の胸元に押し当てられる。
「ぎやああああああああっ!!」
肉が焼け焦げ、胸元の星は無惨にただれた火傷の痕へと変わった。
それと同時に、別の審問官が男の額に、新たな『*』の焼き印を深く刻み込む。
「階級の剥奪、および額への『*』三つの付与を決定します。……さあ、かつての兄弟よ。今日からは第三階級として、死ぬまで泥に塗れて愛を贖いなさい」
「いやだ……っ、いやだああぁぁっ!!」
男は絶望に泣き叫びながら、地下牢の奥深くへと引きずられていった。
第一階級も第二階級も、決して安全ではない。
権力闘争に敗れたり、教皇の意に沿わない行動をとれば、いつでも即座にすべてを剥奪され、借金(星)を背負わされて地獄へと堕とされる。
絶対的な恐怖による支配と、偽りの希望による搾取。
これこそが、神聖テレジア教国という名の、決して逃れられない「巨大な牢獄」の真の姿であった。
「まあ、可哀想に。あの神父様、愛を忘れてしまったのね」
コレットは引きずられていく男の悲鳴を聞きながら、心底同情したように小首を傾げた。
自分もまた、マリアの機嫌一つでいつでも胸の星を焼かれ、額に烙印を押される立場にあることなど、この「無自覚な悪魔」は微塵も理解していなかった。




