第3話:1帝国金貨の重み、あるいは贖罪の帳簿
「……っ、ぐ……がぁっ……!」
かつてサンクチュアリ王国の国立銀行であった建物の地下室。
窓一つない石造りの空間で、フェルディナントは粗末な麻の作業着に身を包み、床にへたり込んでいた。
彼の両手はインクと埃で真っ黒に汚れ、指先には無数の紙で切った傷から血が滲んでいる。
彼の目の前には、天井まで届こうかという**旧王国紙幣**紙幣の山が、いくつも聳え立っていた。
「手が止まっていますよ、フェルディナント『作業員』。本日のノルマまで、あと紙幣束三万個分のナンバリングと裁断が残っています」
冷徹な声を見下ろすように発したのは、帝国の腕章を巻いたニコラスだった。
「ふ、ふざけるな……! 僕は王太子だぞ! なぜ僕が、こんな底辺の奴隷のような真似を……っ!」
「王太子? いいえ、あなたは**5億帝国金貨(5億アレクマルク)**の負債を抱えた、帝国中央銀行の『不良債権』です。……それに、この作業はあなたの『慈愛』の尻拭いですよ」
ニコラスは無造作に、足元に転がっていた1,000万**旧王国紙幣**札の束を蹴り飛ばした。
「あなたが無秩序に刷り散らかしたこの紙屑は、もはや市場で流通させることはおろか、帝国の焼却炉で燃やすための『燃料』としてしか価値がありません。薪を買うより、この紙を燃やした方が安上がりですからね。あなたの仕事は、この『燃料』のシリアルナンバーを帳簿に記録し、裁断機にかけること。ただそれだけです」
「薪の……代わり……?」
フェルディナントは呆然と紙幣の山を見上げた。
かつて自分が「これで民を救える」と得意げにサインした紙幣が、ただの燃えるゴミとして処理されている。
「……計算が合っていませんね」
ニコラスがフェルディナントの書き殴った帳簿を覗き込み、容赦なく赤線を引いた。
「ここの束、150万**旧王国紙幣**分のごまかしがあります。……やり直しです」
「た、たかが150万** 旧王国紙幣**だろう!? 今のレートじゃ、1帝国金貨(1アレクマルク)の何万分の一にもならない端数じゃないか! それくらい……」
ダンッ!!
ニコラスが、フェルディナントの目の前の机を強く叩いた。
その瞳には、かつて取引所で狂気の中でチョークを握り続けていた頃の、鋭い怒りが宿っていた。
「その『たかが』という端数から目を逸らした結果が、この国の死です! あなたが無視したその端数一つで、港で小麦が止まり、昨日も三人の子供が餓死した! 痛い思いをしていないあなただけが、数字を『ただのインクの染み』だと思っている!」
「ひっ……!」
「1帝国金貨を稼ぐために、民がどれだけ血の滲むような思いで泥をすするのか。……一つの狂いもなく書き直すまで、今日の水と食事は抜きです」
ニコラスの冷たい宣告に、フェルディナントは絶望に顔を覆い、再びインクまみれのペンを握るしかなかった。
コレットはとっくに逃げ出し、自分を助けてくれる「愛」も「奇跡」も、この地下室には存在しなかった。
同じ頃。
旧王宮の執務室では、ルナ・フォン・グラウスが、巨大な王国全土の地図と睨み合っていた。
彼女の机の上には、帝国から持ち込んだ最新の計算機と、膨大な書類の山が整然と積まれている。
「……旧王国の国営農地、全区画の担保権設定が完了しました。明日より、帝国の農業ギルドによる直接管理へと移行します」
随員からの報告に、ルナは静かに頷き、地図の一部にℳ(アレクマルク)のシンボルが刻まれたピンを刺した。
「ええ。まずは『食』のインフラを帝国の通貨経済圏に完全に組み込みなさい。旧王国紙幣での取引は一切無効。給与もすべて帝国金貨で支払うこと。……文句を言う地主がいれば、即座に資産を差し押さえて構いません」
「はっ! しかしルナ副総裁、旧王国の民衆は未だにハイパーインフレの混乱の中にあり、暴動の火種が燻っております。急激な通貨切り替えは……」
「だからこそ、ですわ」
ルナは冷ややかに、しかし確固たる自信を持って扇子を開いた。
「中途半端な情けは、彼らを過去の幻想に縛り付けるだけ。……国を建て直すには、まず古い血をすべて抜き取り、『数字は絶対に裏切らない』という新しいルールを骨の髄まで教え込む必要があります。彼らが1帝国金貨価値を正しく理解し、自らの足で立つまで……私は、この国にとって最も冷酷な支配者でなくてはなりませんの」
ルナの視線が、ふと足元の床――地下室がある方向へと向けられた。
「……フェルディナント卿の進捗は?」
「はっ。ニコラス分析官の報告によれば、現在までに三度の計算ミスを起こし、その都度徹夜でやり直しを命じられているとのこと。……ひどく憔悴しているようです」
「結構。……彼が『数字の重み』に押し潰されて死ぬか、それとも這い上がって一人の実務家として再生するか。彼の人的資本の底力、見せてもらいましょうか」
窓の外では、サンクチュアリの街に冷たい雨が降り注いでいた。
かつての「慈愛」という名の甘い毒が洗い流され、冷徹な計算に基づく「再建」の歯車が、重々しく回り始めていた。




