幕間7:破り捨てられた報告書、あるいは冷徹なる忠誠の芽生え
「殿下。恐れながら、これ以上の王室予算の流用は危険です。現在、東部国境の魔物討伐部隊への補給が滞っており、このままでは来月にも『防衛予算の枯渇リスク』が現実のものとなります。どうか、こちらの試算表をご覧いただき……」
サンクチュアリ王国の財務省、執務室。
平民上がりの財務官であるバルトは、徹夜で仕上げた分厚い報告書を両手で差し出した。
一切の計算ミスもない、完璧な複式簿記によって導き出された王国の「死の宣告」だった。
だが、王太子フェルディナントは、その報告書を手に取ることすらしなかった。
彼の腕の中には、新しい絹のドレスに身を包んだ男爵令嬢、コレットが甘えるように寄り添っている。
「バルト。お前はいつも数字、数字だな。息が詰まるよ」
フェルディナントは呆れたようにため息をつき、バルトが差し出した報告書を無造作に払い落とした。
バサリと、計算し尽くされた紙の束が床に散らばる。
「コレットが主催する『貧民街への炊き出しと慰問の音楽会』は、この国の民に笑顔を取り戻すための重要な事業だ。それに比べ、お前のその冷たい紙切れには『愛』がない。国を守るのは無機質な金じゃない、民を想う慈愛の心だろう?」
「そ、そうですよ! バルトさんは冷たいですわ。そんな難しい数字ばかり睨んでいるから、平民のままなんですのよ」
コレットの無邪気な、しかし致命的な侮辱。
バルトは床に散らばった報告書を見つめたまま、奥歯を強く噛み締めた。
平民である自分が、どれだけ血を吐くような思いで計算を合わせ、この国の首の皮一枚を繋ぎ止めているか。
彼らには一生理解できないだろう。
「……殿下のおっしゃる通り、私には『愛』が足りないようです。失礼いたしました」
バルトが感情を殺して一礼すると、フェルディナントは満足そうに頷き、コレットを連れて執務室を出て行った。
静まり返った室内で、バルトは膝をつき、散らばった報告書を拾い集めようとした。
その時である。
「美しい帳簿ですわね。一カ所の計算ミスもない」
凛とした声と共に、バルトの目の前で、白い手袋に包まれた手が報告書の一枚を拾い上げた。
王国財務卿であり、フェルディナントの婚約者――ルナ・フォン・グラウスだった。
「ルナ様……。申し訳ありません、お見苦しいところを」
「謝る必要はありませんわ、バルト。……防衛予算のショートによる国境崩壊リスク、発生確率は98.5%。あなたのこの試算は完璧です。感情に流されず、ただ冷徹に真実のみを映し出している」
ルナは拾い上げた報告書を丁寧に揃え、バルトに手渡した。
「殿下は破り捨てましたが、私はあなたの『数字への忠誠心』を高く評価します。
……バルト。泥舟と共に沈む気がないのなら、私有の暗号回線で私の執務室へ報告を回しなさい。あなたのその類稀なる実務能力には、いずれふさわしい対価を用意して差し上げますわ」
その言葉に、バルトは息を呑んだ。
貴族階級の頂点に立つ公爵家の姫が、平民である自分の仕事を、ただ純粋な「能力の価値」として認めてくれたのだ。
「……ルナ様。私は……」
「感情は不要です。ただ、数字で答えなさい」
ルナの氷のように冷たく、しかし誰よりも誠実な瞳を見つめ返した瞬間。
バルトの中で、サンクチュアリ王国という不良債権を完全に『損切り(ロスカット)』する決意が固まった。
「――御意。以後、私の帳簿はすべて、ルナ様のために」
これが、のちに帝国の資産接収局長として王国を内部から解体することになる冷徹な官僚が、真の主君を選んだ瞬間であった。




