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幕間6:チョークが止まる日、あるいは「価値」の再定義

サンクチュアリ王立証券取引所。


かつて「王国の経済的自尊心」と呼ばれたその場所は、今や絶望と怒号が渦巻く、巨大な精神病院へと変貌していた。


「1,500万サンクだ! いや、1,800万に書き換えろ!」


「ふざけるな! 1分前は1,200万だっただろうが!」


「紙屑だ! こんな紙切れ、パンの包み紙にもなりゃしない!」


天井の高い石造りの空間に、破産を目前にした投資家たちの呪詛が反響する。


かつて10サンクで買えたパンは、新発債の暴落と通貨価値の17.5倍安を経て、もはやAMアレクマルクという「本物の貨幣」で測らなければ正体を保てないほどの怪物と化していた。


その狂乱の中心。巨大な黒板の前に、一人の青年がいた。


記録係、ニコラス。


「…………っ」


彼の指先は、絶え間ないチョークの摩擦で白く染まり、所々で割れて血が滲んでいる。


聴衆の怒号を浴び、時に投げつけられる硬貨(もはや価値のない金属片だ)を避けながら、彼は機敏に、そして正確に、奈落の底へと突き落とされるレートを書き換え続けていた。


右から左へ。消しては書き、消しては書く。


利回りは350%を超え、もはやグラフの枠外へ突き抜けている。


他の記録係たちは、あまりの変動速度と暴徒の恐怖に耐えかね、職務を放棄して逃げ出した。だが、ニコラスだけはそこに踏みとどまっていた。


「……1,850万……次は、1,920万……」


震える声で呟きながら、彼はマーケットの吐息を、一秒の遅滞もなく黒板へと刻みつける。


それは、沈みゆく泥舟の中で、最後まで浸水の水位を正しく測り続けようとする狂信的な誠実さだった。


その時。


怒号の波を割り、冷徹な静寂を纏った影が彼の隣に立った。


「……無駄よ、ニコラス。その黒板に、この国の末路を書き切るスペースはないわ」


ニコラスが視線を向けると、そこには財務卿、ルナ・フォン・グラウスが立っていた。


周囲の狂気が嘘のように、彼女の瞳は凍てつく湖のように澄み渡っている。


「ル、ルナ様……。ですが、私が書くのをやめたら、誰も……今の『真実』を知ることができなくなります……」


「真実? いいえ、それはただの死体検案書よ。……ニコラス、あなたのその動的な記録能力、そしてマーケットの狂気に対して精神を平然と保てる資質。それは、この掃き溜めで朽ちさせていい資産アセットではないわ」


ルナは、足元に落ちていた、半分に折れたチョークを拾い上げた。


そして、ニコラスの手をそっと取り、その掌に一枚の、厚手の羊皮紙を押し付ける。


「……これは?」


「ヴォルテール帝国中央銀行、統計分析局の入行願書。……推薦人の欄には、私の署名があるわ」


ニコラスの目が大きく見開かれる。


帝国中央銀行。


世界最強の通貨、アレクマルクを司る「世界の心臓部」だ。


「この国は、すでに数字を裏切った。だから、数字もこの国を見捨てた。……でも、あなたは数字を裏切らなかったわね。……ニコラス、あなたの才能を、私は『回収』しに来たの」


「回、収……?」


「そう。これは、この国に対する私の、最も残酷な『キャピタル・フライト(資本逃避)』よ」


その瞬間、ニコラスの持っていたチョークが、限界を迎えて粉々に砕けた。


彼の手元に残されたのは、真っ白に汚れた指先と、ルナから渡された黄金のチャンスだけだった。


取引所の巨大な時計が、一日の終わりを告げる鐘を鳴らす。


だが、そこに響いたのは終値の合図ではない。


サンクチュアリ王国という経済体が、最後の一息を吐き出した音だった。


「行きなさい、ニコラス。ここはもう、記録する価値のないゼロになるわ」


ルナはそう言い残すと、一度も振り返ることなく、混乱の極致にある取引所を後にした。


後に残されたニコラスは、真っ白に埋め尽くされた黒板と、掌の中の願書を交互に見つめ――やがて、その場に崩れ落ちるように頭を下げた。


それは、新しい時代の扉が開く、静かな合図だった。

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