幕間5:財務卿の姫
それは、まだ風に花の香りが混じり、数字がただの「希望の道具」だった頃の記憶。
数年前の、サンクチュアリ王立図書館のバルコニー。
夕日に染まる王都を見下ろしながら、若き日のフェルディナントは、隣に立つルナの肩を抱き寄せ、熱っぽく語っていた。
「見てくれ、ルナ。あの街の灯り一つ一つに、民の生活がある。僕は、この国を誰もが飢えることのない、光に満ちた場所にしたいんだ」
当時、まだ少女の面影を残していたルナは、彼の手元にある、自分が徹夜で書き上げた「治水事業の予算案」を見つめた。
それは、感情論ではない。緻密な計算と、資源の最適配分によって導き出された、この国を救うための「処方箋」だった。
「……殿下。理想だけでは、灯りは灯りません。ですが、この予算通りに運搬路を整備し、関税を調整すれば、三年に一度の飢饉は防げるはずですわ」
少し背伸びをした、事務的な口調。
けれど、その瞳には彼と同じ、輝かしい未来への期待が宿っていた。
フェルディナントは、彼女の差し出した無骨な書類を、まるで宝石でも扱うように大切に受け取ると、眩しそうにルナを見つめた。
「ああ、分かっている。僕には理想を語る声しかないが、君にはそれを形にする知恵がある。……ルナ、君こそが僕の半身だ」
彼はそう言って、彼女の細い指先にそっと唇を寄せた。
「父上たちは君をグラウス家の娘と呼ぶが、僕にとっては違う。……君は、僕と一緒にこの国を創り、支えてくれる、世界で唯一の『僕の財務卿の姫』だ」
財務卿の姫。
それは、彼女の家柄を指す言葉ではなかった。
彼の理想を現実にするための、最も信頼するパートナーへの、彼なりの最大の敬意と愛が込められた「特別な名前」だったのだ。
「……財務卿の、姫……」
「そうだ。僕が太陽なら、君は大地だ。僕たちが手を取り合えば、サンクチュアリ王国は永遠に枯れることはないだろう」
その時、ルナは確かに信じた。
この計算機のようで色気のない自分の知性を、これほどまでに必要とし、愛してくれる人がいるのだと。
この人の隣で、この人の夢を数字で支え続けることこそが、自分の生涯の使命なのだと。
……そして、現在。
ルナは、冷え切った執務室で、暗闇の中、一人で自分の指先を見つめていた。
(……財務卿の、姫)
今や、その言葉は皮肉な呪文となって彼女の耳に響く。
フェルディナントは、もうその言葉の意味を忘れているだろう。
彼にとって「財務卿の姫」は、いつしか「自分に口うるさく金を出し渋る、冷酷な女」の代名詞へと塗り替えられてしまった。
かつて一緒に見上げた王都の灯りは、今や放漫財政の果てに、一つ、また一つと消えようとしている。
「…………」
ルナは、ゆっくりと立ち上がり、机の上に置かれた「帝国への資産移管計画」の書類を手に取った。
あの時、彼が「大地」と呼んだ彼女の献身は、もうここにはない。
彼女が守ろうとしたのは、彼との約束だったのか。それとも、ただの数字の羅列だったのか。
(さようなら、殿下。……あなたの『財務卿の姫』は、たった今、この国を損切りいたしましたわ)
窓の外では、かつて二人で愛したはずの国が、音もなく夜の闇に沈んでいった。




