第2話:静寂なる浸食、あるいは「慈愛」の賞味期限
「見てください、フェルディナント様! 今日も街は平和ですわ」婚約破棄から三日が経過した、サンクチュアリ王国の王都。
コレットは可憐な笑顔を浮かべ、窓の外の賑やかな市場を指差した。
パン屋の店先には、今日も香ばしい香りが漂い、市民たちは変わらぬ日常を過ごしている。
「ふん、ルナの奴め。大層な能書きを垂れていったが、結局は負け惜しみの脅しだったということだ」
フェルディナント王太子は、手元の最高級ワインを優雅に揺らした。
ルナが去ったことで、王宮を支配していた「効率」や「収支」といった息の詰まる空気は消え去った。
今やここは、コレットの微笑みと、慈愛に満ちた理想論が支配する楽園だ。
「フェルディナント様。ルナ様がいなくなって浮いた『軍事予算』の一部を使って、貧しい子供たちに、ルナ様が禁じていた高価な甘菓子を配りませんか?」
「ああ、もちろんだ。コレット、君の優しさこそがこの国の至宝だ」
二人は、自分たちが立っている地面が、すでに砂の城のように崩れ始めていることに、まだ気づいていなかった。同時刻。
ヴォルテール帝国の、静謐な書斎。
「……現在、サンクチュアリ王国の主要港に向けて出航予定だった十四隻の大型貨物船が、足止めを食っています」
ルナは、アレクサンドルの膝の間に座り、魔導タブレットに流れる物流データを見つめていた。
アレクサンドルは彼女の細い肩に顎を乗せ、その手元の資料を覗き込んでいる。
「なぜ入れない? まだ宣戦布告も海上封鎖もしていないはずだが」
「『保険』が切れたからですわ、陛下」ルナは、冷ややかな微笑を浮かべた。「あの国の輸出入を支えていた商船の航海保険は、私の個人資産が担保となっていました。私が保証人を辞退した瞬間、保険会社は『リスク過多』と判断し、すべての契約を一時停止した……」
「事故が起きても保証されない海に、船を出す愚かな商人はいません」
「なるほど。物流という名の毛細血管を、事務手続き一枚で止めたわけか」
アレクサンドルは感心したように、ルナの銀髪に指を絡めた。
「だが、まだ王国内の物価は安定しているようだぞ?」
「ええ。市場に『在庫』があるうちは、愚か者たちは平和を享受できるでしょう」
「ですが、在庫が尽き、次の入荷がないと悟った瞬間、恐怖が数字を跳ね上げます。
……ふふ、見てください。今、動きがありましたわ」ルナが指差す水晶板のチャート。
一時間前まで $1 アレクマルク = 1.05 サンク$ 程度だった為替レートが、$1.2 サンク$、$1.5 サンク$ と、目に見える速さで折れ曲がり始めた。
「……始まりましたわ。まず、感の鋭い大商人が動き、次に中堅が、最後に民衆が『サンク』を投げ売り始めます」
「ルナ。君は、この阿鼻叫喚が始まるまでの『静寂』を楽しんでいたのか?」
アレクサンドルが彼女の耳朶を甘く噛む。ルナは少しだけ身をよじり、蕩けるような声で応えた。
「ええ。獲物が罠にかかったことに気づかず、楽しげに踊っている時間……」
「それが、財務卿の跡取り娘として育てられたわたくしが一番愉悦を感じる瞬間ですもの」
そしてルナが婚約破棄を突きつけられた一か月後。
サンクチュアリ王国の市場で、ついに「異変」が起きた。
「おい! 昨日は一サンクだったパンが、なぜ今日は二サンクなんだ!?」
「すまねえ、旦那。小麦が入ってこねえんだ。明日になれば、三サンクに値上げしなきゃならねえ……!」
先月までの「慈愛」の空気は、一変して殺伐としたものへ。
フェルディナント王太子のもとには、悲鳴のような報告が次々と舞い込む。
「殿下! 大変です! 物価の高騰を抑えるため、商人が商品を隠し持っているという噂が広まり、暴動が……!」
「なっ……! ならば命令だ! 『パンの価格を一サンク以上に設定することを禁ずる』という即日法案を出せ! 従わない商人は処刑だ!」
経済学において、最も愚策とされる『強制的な価格統制』。
それが発令された瞬間。
サンクチュアリ王国の棚から、最後の一片のパンが消えた。
「売れば赤字」になる商品を売る商人は、この世に存在しないからだ。ルナの計算通り。
「慈愛」という名の無知が、王国の心臓を止めようとしていた。




