第1話:婚約破棄と、パンの値段
王立アカデミーの卒業記念パーティー。
その宣言が放たれた瞬間、会場の空気は凍りついた——はずだった。
だが、当のルナは、手元のシャンパングラスに映る泡の数でも数えているかのような、不気味なほどの静寂を保っている。
フェルディナント王太子の隣では、コレットが守ってあげたくなるような仕草で彼の腕に縋り付いている。
「フェルディナント様……ルナ様を責めないであげてください。彼女はただ、効率を求めすぎるあまり、人の心がわからなくなってしまっただけなのですから……っ」
「コレット、君はどこまで優しいんだ。だが、慈愛なき財務卿の姫などわが国には不要だ」
ルナはゆっくりと顔を上げた。
彼女の脳内にあるのは、怒りではない。
「サンクチュアリ王国」という名の投資案件に関する、最終的な資産査定の結果だ。
(……王太子の独断による婚約破棄。これによるグラウス公爵家の支持喪失。それに伴う、国内最大手の魔力結晶採掘ギルドの反発。
……予測される国家財政の減少率は、初年度でマイナス十五%。投資適格性は『投機的』まで転落ね)ルナは、扇を開くような優雅さで、懐から一束の書類を取り出した。
「……承知いたしました、フェルディナント殿下。追放の命、謹んでお受けいたしますわ」
「ふん、潔いことだ。泣いて縋っても許さぬつもりだったがな!」
「ええ。ただ、事務手続きだけは済ませておきませんと。
……ここに、私が私財を投じて王国政府に融資していた短期国債、および各通商条約の連帯保証人としての署名がございます」
ルナは、万年筆を取り出すと、迷いなくその書類に**「CANCEL(解除)」**の印影を叩きつけた。
「今この瞬間をもって、私はサンクチュアリ王国の全債務に対する保証義務を放棄します。また、私の個人口座に預けられていた外貨準備高、金塊二千トン相当は、本日付で全額、ヴォルテール帝国へ送金手続きを完了いたしました」
「な……!? 金塊二千トンだと!? 勝手なことをするな!」
「勝手ではありませんわ。それは私個人が、父から相続し、運用して増やした資産。……国庫のお金ではありませんもの」
ルナの瞳が、初めてフェルディナントを真っ直ぐに射抜いた。
それは、破産宣告を行う執行官のような、絶対的な拒絶の光。
「殿下。あなたの国の通貨『サンク』を支えていたのは、魔力結晶ではありません。
それを売って得た外貨を、私がこうして管理し、帝国の通貨——**アレクマルク**とペッグ《固定》させていたからです」
ルナは、テーブルに置かれた一本のパンを指差した。
「今、そのパンは一サンクで買えますわね。……ですが、いずれ、二サンクや三サンクを積み上げても買えなくなっているでしょう。……お元気で、フェルディナント様。慈愛という名の『コスト度外視のバラマキ』で、せいぜい幸せな国を作ってくださいませ」
ルナが会場の扉へ向かうと、そこには既に、漆黒の馬車が待機していた。
馬車の扉には、帝国の紋章。
そして、その前で不敵な笑みを浮かべて待っていたのは、若き皇帝アレクサンドルその人だった。
「待たせたな、ルナ。……いや、我が帝国の財務卿殿」
アレクサンドルは、彼女の冷たい指先を取り、恭しく口づけをした。
「損切りは済んだか?」
「ええ。ゴミ《サンク》を売って、金を買う。……完璧な取引でしたわ、陛下」
こうして、歴史上最も「高くついた」婚約破棄が、幕を開けたのである。
タイトルは長いのでアイコクとか愛国って呼んでくださるとうれしいです。




