★第3.5話:甘い毒の残滓、あるいは「債務者」たちの狂宴
※本エピソードは、コレットとフェルディナントの愛憎描写を含みます。
※物語の本筋(経済戦)には直接影響しませんが、ルナの「決意」に至る背景を描いています。苦手な方は第4話へお進みください。
執務室の扉が閉まった後、ルナは震える指先でペンを握り直した。
だが、白紙の帳簿を凝視しても、先ほど目の前で繰り広げられたコレットの勝ち誇った笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。
(……確認、しなければ。王家の予備費が……これ以上削られたら、本当に……)
強迫観念に突き動かされるように、ルナは帳簿を手に「内廷金庫室」へと向かった。
冷たい石造りの回廊を歩けば、少しは頭が冷えると思ったのだ。
しかし、薄暗い談話室の影から漏れ聞こえてきたのは、ルナの祈りを無惨に踏みにじる、濡れた音と、忍びやかな吐息だった。
「……っ、ああ……フェルディナント様……。そんなに強くされては、お洋服が……」
鼻にかかった、甘ったるいコレットの声。
ルナは雷に打たれたように足を止め、柱の影に身を潜めた。見なければいい。そう分かっているのに、視線は吸い寄せられるように隙間を覗き見る。
そこには、ルナがかつて愛し、今も縋り付こうとしている婚約者の、見たこともないほど情熱的な横顔があった。
フェルディナントが、コレットを壁に押し付け、その細い首筋に貪るように顔を埋めている。
「すまない、コレット……。君があまりに愛らしく泣くから……僕は、どうにかなりそうなんだ。あの女……ルナの前にいる時だけは、君を僕だけのものにしておきたい」
「ふふ……。ルナ様、いつも怖いお顔をしていらっしゃいますものね……。でも、わたくし……フェルディナント様が、わたくしのために怒ってくださるのが、何よりも嬉しくて……」
その言葉一つ一つが、鋭利なナイフとなってルナの胸を切り刻む。
(……どうして。どうして、私じゃないの?)
かつて、彼から贈られた優しい言葉を、ルナは今も大切に胸の金庫に仕舞っている。
だが、目の前の彼は、ルナが必死に守ろうとしている国の予算を「君の笑顔のためなら安いものだ」と笑ってドブに捨て、ルナが一度も触れられたことのない熱量で、別の女を抱いている。
フェルディナントの指がコレットのドレスの紐を解き、白い肌が露わになる。
その艶めかしい光景に、ルナの脳内では無意識に「数字」が弾け飛ぶ。
(ドレスの絹、一着分で、一村の半年分のパンが買える。あの一撫でで消える予算を、私はどれだけの書類を書いて捻出したと思っているの……?)
激しい嫉妬。
「自分の立場を奪われた」という女としての屈辱。
そして、その一方で冷徹に「損失」を計算してしまう自分への嫌悪感。
それらが混ざり合い、ルナの視界はぐにゃりと歪んだ。吐き気がする。
心臓が、借金の利息を刻む時計のように、ドクドクと不快に脈打つ。
その時だ。
フェルディナントに抱かれ、蕩けたような表情を浮かべていたコレットの瞳が、わずかに開かれた。
彼女は、フェルディナントの肩越しに、正確にルナが潜んでいる暗がりの方向を向いた。
「…………」
コレットは、王太子の髪を愛おしそうに撫でながら、ルナに向かって、音もなく微笑んだ。
それは、「あなたの守ろうとしているものは、今、私の手の中で壊されているのよ」という、嘲笑。
「……っ、コレット……っ!」
フェルディナントが熱に浮かされた声を上げ、彼女の細い肩に歯を立てる。
コレットは、ルナをじっと見つめたまま、わざとらしく、高く艶めいた声を上げた。
「ああっ……! いけませんわ、フェルディナント様……そんな……もっと、もっと……可愛がってください……っ」
ルナは、崩れそうになる膝を必死に支え、音を立てないようにその場を離れた。
廊下を走る足取りは覚束ず、視界は涙で滲んでいるのか、それとも疲労で霞んでいるのかも分からない。
(もう、分からない……。私は、何のために戦っているの? 彼を守るため? それとも、彼を愛している自分を守るため……?)
「……っ、う、……ぁ……」
物陰に身を寄せたルナは、口元を抑えて嗚咽を殺した。
頭の中では、崩壊していくサンクチュアリ王国の貸借対照表と、彼がコレットの肌を撫でる感触が、濁流となって渦巻いている。
愛している。憎い。守りたい。壊してしまいたい。
数字だけが正解を教えてくれる世界で、自分の感情だけが、どうしても「計算」が合わない。
(助けて……。誰か、私を、この地獄から……)
冷徹な「財務卿の姫」の仮面が剥がれ落ち、そこにはただ、裏切られ、疲れ果て、泥沼に沈みゆく一人の少女の絶望だけが残されていた。




