第3話:計算された「無垢」、あるいは毒入りの砂糖菓子
「失礼いたしますわ、ルナ様っ」
花が綻ぶような声と共に、執務室の重い扉が遠慮なく開け放たれた。
入ってきたのは、ふんわりとした桃色の髪を揺らし、フェルディナントの腕にこれでもかと密着したコレットだった。
ルナは、目の前の「未払金リスト」から顔を上げ、無表情に彼女を迎え入れた。
「……コレット様。ここは国の財政を司る場所です。私室ではありませんわ」
「まあ、ごめんなさい! わたくし、ルナ様とお話したくて、つい……。……ね、フェルディナント様?」
コレットは、上目遣いでフェルディナントを見つめ、彼の二の腕をキュッと抱きしめた。
その仕草は、あまりにも自然で、それでいて「私は彼の特別なの」という強烈な誇示に満ちていた。
「ははは、気にするなコレット。ルナはいつもこうして、四角い書類ばかり見ているから、心の余裕がなくなっているだけだよ」
フェルディナントが、慈しむようにコレットの頭を撫でる。
ルナの胸の奥で、冷たい何かが澱のように溜まっていく。
「それで……今日はどのようなご用件でしょうか。お祭りの予算については、昨日お断りしたはずですが」
「あ、それなんですけれど……」
コレットは、少しだけ俯き、長い睫毛を伏せて見せた。
そして、まるで「叱られた子供」のような、守ってあげたくなる弱々しい声で呟く。
「わたくし、考えたんです。……お金がないのなら、わたくしが街でお歌を歌って、寄付を募ればいいのではないかしら、って……。……そうすれば、ルナ様を困らせずに済みますものね?」
「……街で、歌を?」
「はい! わたくしの、精一杯の真心をお届けすれば、きっと民の皆様も、大切なお金を分けてくださると思うんです。……わたくし、難しい計算は苦手ですけれど、人の温かさだけは信じているのっ」
コレットは、握りこぶしを作って胸元に寄せ、無邪気に微笑んだ。
(……この女。本気で言っているの?)
ルナは、眩暈を覚えた。
王太子の次期婚約者候補が街頭で歌を歌うなど、国の品位を貶める以外の何物でもない。
さらに、飢えている民から「寄付」を募るなど、搾取の極みだ。
「コレット様。……それは現実的ではありません。第一、貴族としての矜持というものが――」
「まあっ! ……矜持、ですか。……ルナ様は、やっぱりわたくしのことがお嫌いなんですのね」
コレットの大きな瞳に、瞬時に涙が溜まった。
ポロリと一粒、真珠のような涙が頬を伝う。
「わたくし、ただ……みんなの笑顔が見たかっただけなんです。……ルナ様みたいに賢くないから、一生懸命考えたのに……。……フェルディナント様、わたくし、また何か失礼なことを言ってしまいましたか……?」
「コレット! 泣かないでくれ、君は何も悪くないっ」
フェルディナントが、慌ててコレットを抱き寄せ、ルナを射抜くような目で見据えた。
「ルナ! 君のその冷酷な正論が、どれほど人を傷つけるか、少しは考えたらどうだ! コレットは、自分の身を削ってでも国を良くしようと提案してくれたんだぞ!」
「……殿下。……それは『身を削る』ことにはなりません」
「黙れ! もういい、お祭りの予算は、王家の予備費から出す。……文句があるなら、僕を弾劾すればいい!」
「……フェルディナント様、そんな……わたくしのために、ルナ様と喧嘩しないで……。……ルナ様、ごめんなさい。わたくし、またお勉強して出直してきますわ」
コレットは、ハンカチで目元を抑えながら、立ち去り際にチラリとルナを見た。
その瞬間。
フェルディナントからは見えない角度で、コレットの口角が、わずかに、獲物を仕留めた猟犬のように吊り上がったのを、ルナは見逃さなかった。
扉が閉まると、執務室には静寂と、コレットが振りまいた甘ったるい香水の匂いだけが残った。
「…………」
ルナは、無言でペンを手に取った。
帳簿の上には、また一つ、返せる見込みのない赤字が刻まれる。
彼女が守ろうとしている防波堤は、外からではなく、内側から食い荒らされている。




