第1話:赤字の「慈愛」、あるいは埋まらぬ溝
深夜三時。王宮の財務卿執務室。
ルナ・フォン・グラウスは、重い瞼を擦りながら、山のような帳簿と格闘していた。
卓上のランプが、彼女の疲弊した横顔を淡く照らしている。
「……また、支出が膨らんでいますわ。王都の広場の修繕に、百万**サンク**? 先日直したばかりですのに」
帳簿に記された数字は、サンクチュアリ王国の絶望的な現状を雄弁に物語っていた。
この国の基幹産業である魔力結晶は、旧態依然としたギルドの利権争いで生産効率が落ち込んでいる。
一方で、王太子のフェルディナントが主導する「民への施し」によって、国庫は常に底が見えていた。
「ルナ。まだ起きていたのか?」
扉を開けて入ってきたのは、当時、まだ婚約者として親密だったはずのフェルディナントだった。
「フェルディナント様。……ええ。来期の予算案をまとめております」
「そんなことより、もっと楽しい話をしよう。コレットという男爵令嬢を知っているか? 彼女が提案してくれたんだ」
「貧民街に、新しい噴水を作ろうと。民の心が潤えば、きっと国も豊かになる、と彼女は言うんだ。素晴らしいだろう?」
ルナは、ペンを握る手に思わず力が入った。
「……殿下。噴水を作るための石材も、魔法技師への報酬も、どこから捻出するおつもりですか?」
「何を細かいことを。我が国には魔力結晶がある。足りなくなれば、少し増産すればいいだけだろう?」
フェルディナントは、屈託のない笑顔で言い放つ。
彼は、結晶の採掘量を増やすための設備投資がどれほど高価で、時間がかかるのかを知らない。
それどころか、現在の採掘権を担保に、隣国から巨額の借金をしている事実すら、ルナが説明しても耳を貸さなかった。
「……分かりましたわ。私の方で、何とか工面いたします」
ルナは、深く、深く溜息をつき、再び帳簿に向き合った。
彼女がしているのは、外科手術ですらない。
「穴の開いたバケツ」に、自分の血を流し込んで、水位を維持するような絶望的な作業。
翌朝。ルナは徹夜明けの足で、頑固な結晶ギルドの親方たちの元へ向かった。
頭を下げ、冷徹な交渉を繰り返し、時には私財を投げ打って彼らの信頼を繋ぎ止める。
「ルナ様、あんたも物好きだ。こんな傾きかけた国のために、そこまでしなくても」
親方の言葉に、ルナは静かに微笑んだ。
「……私がやらなければ、この国は明日にでも崩壊してしまいますから」
「何より、あの方が王になる国を、私は守りたいのです」
その献身が、のちに「冷徹な態度は王妃にふさわしくない」という一言で踏みにじられるとは。
当時の彼女は、まだ、一縷の希望を信じていたのである。




