第十七話 地固まる
俺の渾身の右拳。そして、翔の最高速の飛び蹴り。
その二つの絶大なエネルギーが正面から衝突し、ドーム型訓練場を吹き飛ばすほどの衝撃波が生まれる――はずだった。
「……は?」
俺の口から、間の抜けた声が漏れる。
俺の拳は、確かに翔の蹴りを捉える軌道にあった。だが、激突の直前で二人の間に音もなく割り込んだ男が、左右の手のひらで俺たちの攻撃をそっと受け止めていたのだ。
衝突の衝撃も、爆音も、熱もない。
「おやおや。元気なのは結構ですが、初日から退学を懸けた私闘などされては、こちらとしても書類仕事が増えて困るのですよ」
グレイは、困ったように眉を下げながら、穏やかに微笑んでいた。
隙のないオールバックの髪型に、埃一つついていない仕立ての良いスーツ。
俺と翔は、完全に体勢を崩したまま硬直していた。
「な……んだと……?」
先に声を発したのは翔だった。
黄金の光を纏い、極限まで時間を圧縮していたはずの彼の身体も、今はすっかり元の状態に戻っている。彼もまた、己の全力の一撃が無に帰された事実を前に、驚愕に目を見開いていた。
「さて……白恩くん、環くん。あなた方の熱意と誇りの高さは評価しましょう。ですが、天令のルールを初日から破ったことは事実です」
グレイの眼差しは穏やかだったが、その奥底には、決して逆らうことを許さない絶対的な強者の冷たさが横たわっていた。俺は思わず息を呑む。
レイや我藤師匠とも違う、底の知れない不気味さ。
「今日は入学初日ということに免じて、厳重注意に留めておきます。……さあ、二人とも医務室へ行きなさい。環くんは肋骨が折れているでしょうし、白恩くんも反動で筋肉が悲鳴を上げているはずです。治療が終わったら、速やかに第1クラスの教室へ戻るように」
有無を言わせぬその指示に、俺と翔は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく舌打ちをした。
♦♦♦
天令の医務室は、街の病院よりも遥かに高度な設備が整っていた。
治癒能力を持つ専門の医療スタッフによってものの数秒で傷の修復を終えた俺たちは、無機質な白いベッドに並んで腰掛けていた。
痛みは引いたが、急激な治癒によるだるさが身体に残っている。
「……おい、下民」
静寂を破ったのは、隣のベッドに座る翔だった。
彼の声には、先ほどまでの傲慢で刺々しい怒りはなく、どこか憑き物が落ちたような、疲労の混じった響きがあった。
「俺は環輪だ。いつまで下民って呼ぶつもりだ」
「ふん。……てめぇ、あの一撃、アレが当たってたら俺でもタダじゃ済まなかったぞ。よくあんな力を持て余さずに隠し持ってたな」
「隠してたわけじゃない。俺はアレしかできない不器用なんだよ。そっちこそ、あんなに動いたら身体が壊れるんじゃないか?」
俺が尋ねると、翔は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「俺の『黄金ノ時間』は強力だが、自分自身の肉体にかかる負荷も比例して跳ね上がる。……だから俺は、速攻で敵を仕留めなきゃならない。親父たちのような完璧な執行者になるためには、こんな弱点、見せるわけにはいかないんだよ」
名家『白恩』の看板。それが彼にどれほどの重圧を与えているのか、俺には想像もつかない。
だが、彼がただ血筋を鼻にかけているだけの嫌味な男ではないことは、あの決闘での姿勢でよく分かった。取り巻きの不正を許さず、俺の不意打ちをわざと受けたあの馬鹿正直な誇りの高さ。
「お前、本当はいいヤツだな」
「なっ……!? 誰がいいヤツだ! 気安く話しかけるな!」
顔を赤くして声を荒らげる翔を見て、俺は思わず吹き出してしまった。
「笑うな! いいか、今日のところは引き分けにしておいてやる。だが、次は絶対に俺が勝つ。俺の誇りに懸けて、てめぇを完璧に叩き潰してやるから覚悟しておけ!」
「ああ、受けて立つよ。だけど、悠真に突っかかるのはもうやめろよな」
「……あいつの『呪われた剣』がどういうものか、てめぇはまだ分かってないんだよ。まあいい、俺が証明してやる」
そっぽを向く翔だが、その横顔にはもう、初対面の時のようなどす黒い嫌悪感はなかった。
♦♦♦
医務室を出て、俺たちは再び風棟の第1クラスへと戻ってきた。
重厚な木扉を開けて中に入ると、教室内が一瞬にして静まり返った。
無理もない。入学初日、出会って数分で退学を懸けた決闘をしに出掛けていった二人が、並んで帰ってきたのだ。
教室内には二十名ほどの新入生たちがいたが、彼らは俺たちを見て、腫れ物に触るような、あるいは少し引いているような視線を向けている。
「あ、環さん! 無事でしたか! 私はてっきり、本当に壁のシミになってしまったかと思って心配で心配で……!」
「輪、大丈夫だったか? あまり無茶はしないでって言ったのに……」
入り口で立ち尽くす俺たちに駆け寄ってきたのは、悠真と白月だった。
「心配かけたな、悠真。白月も、相変わらず一言多いが心配してくれてありがとな」
胸を張る白月に苦笑していると、背後から鋭い柏手の音が響いた。
「ちょっとちょっと! ウケるんだけど! 初日から退学賭けてマジ喧嘩とか、ヤバすぎっしょ!」
声の主は、指定の制服をギャル風に大胆に着崩した女子生徒だった。
明るいブラウンの髪をゆるく巻き、耳元には目を引く派手なアクセサリー。天令という厳格な雰囲気の学校にはおよそ似つかわしくない、底抜けに明るいノリの良さだ。
「えっと……お前は?」
「あーし? あーしは新戸なつめ! 炎の創造者やってまーす。よろしくね、ヤンチャボーイたち!」
なつめは快活に笑いながら、気さくに右手を差し出してきた。
戸惑いながらも握手を返すと、彼女の手は見た目に反してマメがあり、しっかりと訓練を積んできた者の手だと分かった。
「おい、なつめ。あんま冷やかしてやるな。こいつらも疲れてる」
なつめの背後から、見上げるほどガタイが良い、熊のような男子生徒が近づいてきた。
鋭い三白眼に、短く刈り揃えた髪。一見すると近寄りがたい強面の不良のように見えるが、その低い声には、どこか世話焼きな兄貴分のような温かさを感じさせた。
「……片岩関だ。お前ら、いい身体をしてるな。あの一撃、悪くなかった」
関は短くそう言うと、俺と翔の肩をそれぞれ大きな手で力強く叩いた。
口数は少ないが、その目には確かな好意と敬意が浮かんでいる。
「なつめに関、か。俺は環輪。こっちは白恩翔だ」
「白恩だ。気安く触るな、デカブツ」
翔は関の手を振り払いながらも、以前のような見下す態度は取らなかった。ただの強がりだと分かる。
「あははっ、翔くんツンデレじゃん! 可愛い〜!」
「なっ、誰が可愛いだ!」
「……これから同じクラスだ。よろしく頼む」
関が落ち着いた声で短くまとめ、なつめが翔をからかい、白月が訳も分からず「私もツンデレという高度な技を習得するべきでしょうか」と悠真に真剣に相談している。
教室の他の生徒たちが遠巻きに俺たちを見守る中、俺はこの五人の輪の中にいることが、ひどく居心地が良いと感じていた。
すると
教室の前の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、先ほど俺たちを止めた担任、グレイだ。彼が教壇に立つと、瞬く間に教室内の私語が止み、ピンと張り詰めた空気が満ちた。
「さて、皆さん。お揃いのようですね。これより、第1クラスの最初のホームルームを始めます」
グレイは出席簿を広げながら、教室全体をゆっくりと見渡した。
「皆さんは、天令の厳しい試験を突破した優秀な『原石』です。……ですが、勘違いしないでください。今のあなたたちは、ただ力を持て余しているだけの脆いガラス玉に過ぎません」
彼の視線が、ちらりと俺や翔、そして関やなつめたちのグループに向けられた気がした。
「力に溺れる者。己の理想に固執する者。周りが見えていない者。……執行者としての任務は、個人の力だけでどうにかなるほど甘いものではない。あなたたちが本当に世界を救う力になりたいのなら、まずは『仲間』という理不尽を許容することを学びなさい」
グレイはホログラムのモニターを背後に展開し、そこに広大な森林地帯のマップを映し出した。
「明日から、新入生を対象とした『第一次実地訓練』を開始します。数人一組の小隊を組み、仮想の化心体が生息するエリアでサバイバルを行ってもらいます」




