第十三話 方向音痴と壁人間
「……なら、もう少しクッション性を持たせるとか、壁としての配慮があってもいいんじゃないですか」
「だから人だって言ってるだろ。それに、前を見ずに突っ込んできたのはそっちだ」
思わず額を押さえてため息をつく。
いくら相手の言い分が理不尽でも、胸の高さほどしかない小柄な相手に、これ以上ムキになって言い合っても仕方がない。同じ新入生、つまりは同い年なのだから、なおさらだ。
痛む腹をさすりながら周囲を見渡すと、状況が読めてきた。
ここはどうやら、新入生たちが空間跳躍を経て到着するための『転移ゲートエリア』らしい。広大な大理石のフロアには、俺がくぐり抜けてきたのと同じような青白い光の亀裂――『扉』が、等間隔にいくつも開いている。
そこから真新しい制服を着た同年代の少年少女たちが次々と現れ、一様に目を輝かせながら、フロアの奥にある巨大なアーチ状の出口へと向かって歩いていく。
つまり、ここは「一方通行」なのだ。
全員が出口に向かって歩いている中で、なぜかこの白髪の彼女だけが、人の波に逆らい、完全に逆方向へと歩を進めていたらしい。
そして運悪く、俺の扉が開いて実体化したドンピシャのタイミングで、よそ見をしながら突っ込んできた。
……奇跡的なまでの間の悪さと、純度百パーセントの彼女の不注意である。
「そもそも、みんなあっちに向かって歩いてるだろう。なんで君だけ逆走してたんだ?」
「逆走じゃありません。私はただ、より芸術的なルートを模索していただけで……って、それより!」
彼女は自分の非を誤魔化すように、ふんす、と鼻息を荒くして俺を指差した。
「で、あなたは誰? 壁人間?」
「もう壁から離れて欲しいんだが。俺は環輪。れっきとした人間だ! 君は?」
「え、ああ私は白月澪。人間です」
白月澪。
透き通るような純白の髪に、月明かりを宿したような瞳。その可憐で神秘的な容姿と、ポンコツ極まりない言動のギャップに、俺は再び深いため息をついた。
「まあいい、白月。とりあえず入学式の会場か、オリエンテーションの場所に向かうぞ。いつまでも転移エリアにいたら邪魔になる」
「澪でいいですよ。……ふふん、仕方ありませんね。右も左も分からない壁人間のために、この私が案内してあげましょう。ついてきなさい、環さん!」
俺の「白月」という呼びかけをスルーしつつ、白月は誇らしげに胸を張り、なぜか自信満々に歩き出した。
俺は少し迷ったが、とりあえず彼女の背中を追うことにした。俺自身、この広大な施設の構造を把握しているわけではないし、先を歩く他の生徒たちの姿も、いつの間にか入り組んだ通路の奥へと消えてしまっていたからだ。
だが、歩き出して五分で、俺は自分の選択を深く後悔することになる。
「……おい、白月。さっきから同じ女神像の前を三回通ってる気がするんだが」
「気のせいです、環さん! これは、芸術的なモチーフの高度な建築様式であって……!」
「あそこの壁に、はっきりと『入学式会場は右』って矢印が出てるぞ」
「あれは罠です! 凡庸な思考を持つ者をふるい落とすための、天令の巧妙なテストなんですよ!」
罠なわけがない。どう見てもただの親切な案内板だ。
しかし白月は、案内板の矢印を華麗にスルーし、自信満々な足取りで『関係者以外立入禁止』と書かれた薄暗い通路へと突き進んでいく。
創造者育成学校「天令」の内部は、確かに複雑だった。
天井は見上げるほど高く、壁には無数の魔法陣や幾何学模様が刻まれ、床には奇妙な発光体が埋め込まれている。通路は有機的にうねり、階段は重力を無視したように壁面を這い上がっている箇所すらある。
空間自体がひとつの巨大な『創造物』であるかのような、圧倒的な情報量。
普通の人間なら目を回してしまうだろう。
だが、それでも。
「……行き止まりだな。しかも、ここは清掃用具入れだ」
「おかしいですね……。私の緻密な空間把握能力によれば、このモップの裏あたりに隠し扉が……」
白月が真顔でモップの柄をガチャガチャと動かしているのを見て、俺は確信した。
この同級生、致命的な方向音痴だ。
それも、ただ迷うだけでなく、「謎の自信とともに間違った方向へフルアクセルを踏み込む」という、一番タチの悪いタイプの。
「もういい。俺が前を歩く」
「なっ、私の完璧なナビゲートに不満があるんですか、環さん!?」
「不満しかない。というか、お前さっき転移エリアで逆走してたのも、普通に道に迷ってただけだろ」
「ち、違いますっ! 私は方向音痴じゃありません! ただ、空間の歪みを敏感に察知しすぎてしまう高尚な才能のせいで、三次元の物理法則と脳内マッピングにわずかなタイムラグが生じているだけで……!」
「それを世間では方向音痴と呼ぶんだよ」
顔を真っ赤にして早口で言い訳を並べる白月の肩に、俺はポンと軽く手を置いた。
「いいから、黙ってついてこい。遅刻して評価を下げられたらたまらないからな」
俺は自分の本来の目的――師匠から聞いたこの学校で腕を磨き、俺の思い描く『理想』の創造者に近づくという目標――を思い出し、気を引き締める。
こんなポンコツな彼女のペースに巻き込まれて、初日からマイナススタートを切るわけにはいかない。
「……こっちだ」
俺は目を開け、来た道を引き返して、さっき白月が「罠だ」と言い張った案内板の通りに右へと曲がった。
「ああっ、ダメですよ環さん! そっちは凡人の行く道です!」
「凡人で結構。俺は最短ルートで目的地に着きたいだけだ」
喚きながらも、置いていかれるのは怖いのか、白月はちょこちょこと小走りで俺の背中についてくる。
その後も、突然現れた動く階段や、幻影の壁といった「天令らしい」ギミックに白月はいちいち引っかかりそうになったが、俺がその度に彼女の制服の襟首を掴んで正しいルートへと引き戻した。
「……本当に、こっちで合ってるんですか?」
十分ほど歩いた頃、不安そうに俺の袖を引く白月。
「合ってる。ほら、聞こえるだろ」
俺が顎で前方を示すと、巨大な両開きの樫の扉が見えてきた。
扉の向こうからは、大勢の人間のざわめきと、荘厳なパイプオルガンのような音楽が微かに漏れ聞こえてくる。間違いない。あそこが入学式の行われる大講堂だ。
「ほ、本当だ……。壁人間のくせに、やりますね、環さん」
「だから人間だって言ってるだろ」
強がる白月の言葉に毒気を抜かれ、俺は小さく笑みをこぼした。
俺はただ、自分の理想を形にするためだけにここに来たのだ。
「ほら、行くぞ、白月」
「言われなくても行きますよ、環さん!」




