その九 つるんとフワフワの違いに気が付いたならば
寺島が思い悩んでいることは、あぐりの自分への気持が大怪我中の中での吊り橋効果的なものではなかったのか、という点だ。
酷い怪我で動けなかった彼女は、未来を夢見るよりは異世界での過去を夢見る方が楽だったのではないだろうか。
寺島は病室でのあぐりの姿を思い出す度に、彼女は自分の怪我が治っていく幸福感を現実の自分への恋心に変換したのではないだろうかと考えるのだ。
アルビーナがオスカーを愛していたのは事実であろう。
しかし、寺島こそオスカーの意識はあっても、厳密にオスカーそのものと自分で自分を言い切れないのも事実なのだ。
鏡に映る自分の顔がオスカーの時のものと違う様に、違う顔を毎日自分の顔だと見返すたびに、彼は自分の内面も変わっていっている気もするのだ。
彼のアルビーナへの気持もそうだ。
オスカーはただひたすらに彼女を愛していた。
だがオスカーでもあるはずの今の寺島は、あぐりにこそ毎日恋心が募っており、異世界でのアルビーナの外見にあぐりがなってしまったら、彼はあぐりに愛していると叫ぶことが出来ないだろうとまで思い詰めているのである。
異世界のアルビーナは、女神か人形のように美しかった。
けれども寺島でしかない今は、目の前のふわっと柔らかい輪郭を持ったあぐりこそ大好きで堪らないのだ。
そして、彼は自分がそうだと考える事で、結局は最初の悩みに戻るのである。
あぐりは互いの外見の違いを知ることで、外見の違いがあるように二人の関係が夢物語と同じ愛ではないと気が付くだろう。
それから自分のようにさらに相手を愛するのではなく、若く可能性もある彼女は、今後の現実社会での自分の気持や人生を見直すことになるだろう、と。
寺島は目の前の愛する人を見返した。
涙に堪えている様は、彼女が言い出し辛いが言い出さなくてはいけない告白を抱いているからに違いない。
彼女は十八歳でしかなく、三歳児の母にしてしまうには若過ぎる。
未来のある彼女を解放できるのは自分しかいない。
愛しているならば、自分こそ彼女から身を引くんだ。
寺島は自分にそう言い聞かせ、あぐりの告白を聞く覚悟を決めた。
「君が決めた事は何でも聞くよ。」
あぐりは寺島を見上げて両手を伸ばすと、寺島に抱きついてくるどころか、奪うように寺島の手から三歳児を取り上げた。
どか。
次には寺島は床に尻餅をついていた。
女の子に下半身を思いっ切り蹴られるなど想定外で、そのために彼はあぐりの蹴りを呆然としながら受けていたのである。
「あぐり?」
「振りたきゃ自分で振れよ!」
可愛い顔を泣きそうに歪めている彼女が、自分に何を言い出したのか?
寺島は脳みその動きが全くついて行かなかった。
だからこそ、事態に呆気にとられながら愛する人を見上げているしかなかった。
「分かっているよ。会う度に貴方が暗くなっているのはさ。アルビーナと違って私がみっともない体をしているからだろ?美人じゃないし、単なる高校生の子供だ。あの男尊女卑な世界と違って働くバリキャリが周りにいるもんな。ガキを相手にしているって分かったんだろ?だから、だから、私と別れたくても別れられなくて悩んでんだろ?」
「え?」
寺島は本気で頭の中が真っ白になっていた。
あぐりこそ寺島からの愛を失ったと思って落ち込んでいる?
彼はその事実だけで頭の中でハレルヤの大合唱が始まっており、考えるべきことや彼女に掛ける言葉など何も考え付けない有様となっていた。
「え?」
彼が唖然と見守る中、あぐりはさらに彼女らしい行動を取った。
どこまでも気が強くて他人思いの彼女は、アルビーナの時と同様に、泣いて男の気を惹こうとは考えもしない。
自分の顔を自分が抱いている幼児のお腹に擦り付け始めたのである。
ぐりぐりと。
両目から溢れてきた涙を彼女は幼児のTシャツで拭っているだけらしいのだが、寺島は今こそ息子の代りがしたかった。
くすぐったいと喜んでいる息子を、彼はほのぼのとした目で見守るどころか、今すぐに代わって頂戴と叫びそうにもなっていた。
俺の胸で涙を、いや、君が息子にしてるそこは経験した事が無いからそこで!
そして、こんな大事な場面でもそんなことしか考えられない寺島が自分を恥ずかしく思うぐらいに、あぐりは凛とした顔つきに戻って寺島を見下ろした。
それでも彼女は自分を奮い立たせる何かが必要だったようだ。
ごくりと大きく唾を飲み込んで、大きく息を吸ったのだ。
「あぐり?俺は――。」
「何があったって我が家は今までと変わらずに海君を養育します。だからあなたの本音を聞かせてほしいの。」
寺島の言葉が出た途端に、あぐりは寺島の言葉を打ち消すように言い放った。
その行為はあぐりが寺島の本意が聞きたいと言いながら、本当は一切寺島の言い分など聞きたくないと思っているそのもののように感じた。
感じて、彼女のいじらしさや、彼女の自分への愛情に、寺島は完全に打ちのめされていた。
だからか、彼の口から彼の本音が飛び出していた。
「君を今すぐに抱きたい。」
あぐりは考えもしなかった台詞を耳にして、両目を真ん丸に見開いた。
だからか、今までは寺島の専売特許だった台詞を返して来たのである。
「え?」
寺島は彼女が顔に浮かべた、その素っ頓狂な表情に心が綻んだ。
もっと彼女の百面相が見たいと考えた。
そこで自分の揺るぎない真実である言葉、愛している、と彼女に告げるよりも、自分の揺るぎない肉体の真実を告げてみる事にしたのである。
「君を前にする度に押し倒したくなる。君の唇を奪いたくなる。愛していると叫んで君を人気の無いどこかに連れ去ってしまいたくなる。俺は自分のその獣じみた衝動を抑えるのが辛い。毎日毎日、会う度に強くなる欲求を押さえるのが辛い。だが君に会えねば死んでしまいそうになる。だから俺は歯を食いしばってでも君に会いに来る。」
ぺたん。
寺島のまん前にあぐりが座りこんだ。
くひゃひゃひゃ。
あぐりに抱かれていた寺島の息子はフリーフォールを体験したからか、両目を爛々と輝かせて気味の悪い笑い声を出して喜んでいる。
寺島は今のところ邪魔になった息子をあぐりから取り戻すと、彼を自分の背中に貼り付け直した。
それから彼は愛する女性に両手を伸ばして彼女を自分に引き寄せた。
「あなただけを愛しています。ここは絶対に揺るがない。」
「あ、あい、愛しています。」
なんて可愛いんだろう、と寺島はあぐりの頭頂部に口づけた。
ミントのコロンの香りが彼の鼻をくすぐり、彼は自分の高校時代を思い返しながら懐かしい香りだと彼女の額にキスをした。
「俺は君には今でもおじさんだ。君が大学を卒業した時、俺は本気でくたびれているでしょう。君が俺を振り払わない限り、俺はあなたを離しませんよ。いいのですか?」
寺島の腕の中で、くすくすと可愛い笑い声が弾けた。
それから彼の腕の中の可愛い悪女は、寺島をまた追い詰める台詞を呟いた。
「お腹がアルビーナと違ってふよんとしているの。それでもいいの?」
「知ってます。俺はふわふわな君が大好きです。」
「じゃ、じゃあ。腹筋は明日からもしなくていいわね!」
寺島はあぐりから腕を外すと、あぐりの両手を掴んで出来る限りの笑顔を作って彼女の顔を覗き込んだ。
「腹筋は今日からしよう。」
あぐりは不貞腐れた顔を作り、寺島はその突き出した唇を美味しくいただいた。




