その七 無垢で清純な君だからこそ
「寺島君、君はもう上がっていいよ。」
外回りから戻ってみれば、機動隊の船越小隊長が自ら声をかけて来た。
大柄で体格が良くレイバンが似合う人は白バイ隊の見本のような外見であり、大雑把な中身ながら情が深く、現場では咄嗟の判断が的確であるからと隊では人気者の人である。
寺島はそんな上司に話しかけられて恐縮もしていたが、今日の自分は遅番だったはずだと訝しさも抱いていた。
そこで隊長を見返せば、隊長は訳ありな笑みを浮かべた後に、寺島に囁いた。
「三崎部長に恩を売った方がいいぞ。シフト交代だ。」
「三崎巡査部長がケガでもされたのですか?」
「いいや。明日からの署長の温泉旅行の運転手に抜擢されたんだが、明日休暇予定だった彼は君と休暇を交換したいらしい。ええと、君の次の休暇は、彼の彼女の誕生日だったかな?」
「え、で?自分が休みを貰った代わりに、その上司の温泉旅行という泊りがけの運転手をするように、と?申し訳ありませんが、自分は子供の養育のために夜勤無しを現在認めて貰っている身の上でして、あの、上司の命令でも、その。」
隊長はハハハと軽く笑うと、寺島の肩をポンと叩いた。
上司に肩を叩かれて従わない部下はいない。
寺島は覚悟を決めた。
今回は従うが、近いうちに転職をしようと。
「署長は親友一家と温泉旅行をする予定だ。この町では知らない人がいない、道成寺日出郎さん一家とね。」
あぐりと海と旅行ができるという事か!
寺島は一瞬で転職の考えを捨て去ったどころか、船越を尊敬する上司として一生崇めて彼に追従していこうと誓った。
「これはあなたの恩情ですね。感謝します。」
「感謝?俺だったら俺を罵ったぞ。道成寺さんは、商売先の息子とその従兄弟も旅行に招いていてね、その従兄弟の父親が警察庁の警視長さんだ。署長の悪ガキとあのコンバーチブル馬鹿を持て成すんだ。俺は嫌だね。」
しかし寺島は船越に深々と頭を下げていた。
そして、思いがけず貰った早帰りと二日の休暇に思いを馳せながら、寺島は軽い足取りで道成寺の家を訪ねた。
すると、道成寺の手伝いの鈴木が寺島を案内したのは、いつもの道成寺家の居間ではなく、法事の時に使うだろう仏間と繋がる広い和室であった。
仏間と和室の襖を外して繋げた事で、広い宴会場と化していたそこの様子を目にした一瞬で、寺島は自分が地獄行きを選択したのだろうと確信してしまった。
十畳以上の和室に大きな座卓が中心に置かれ、その上には寿司桶や仕出しによるオードブルなどが並んでいる。
そこに彼の署の署長一家、中古販売とレンタカーを経営している小野寺親子、たった一日で県警内で有名になったコンパーチブル馬鹿という面々が座卓を囲んでいたのだ。
寺島がうんざりしたのは、コンパーチブル馬鹿と署長へのおべっかが必要な今後についてではない。
コンパーチブル馬鹿は日出郎に任せておけばよいし、署長に至っては、不妊治療の末に出来て可愛がり過ぎた三つ子の小学生が生意気なだけである。
そこはきっとあぐりが躾けるだろう。
いや、それ狙いでの家族旅行を署長は親友に頼んだのかもしれないと、寺島が考えたぐらいだ。
よって、寺島は上記の面々にはうんざりなどしていない。
問題は、小野寺親子だ。
中古販売業の小野寺は昔からの地主で金があるからか、「おらが村の大将」まる出しで、寺島自身が一番苦手とする人物なのである。
否、娘の方だな、苦手なのは、と寺島は考え直しながら鈴木に尋ねていた。
鈴木の返答で小野寺娘が消えれば良いな、と思いながら。
二十代前半の小野寺娘はそれなりな美人だが、寺島の好みではない。
それなのに時々寺島にちょっかいをかけてくるのだ。
「これは?」
「明日の温泉旅行の参加者の集いですわ。温泉宿なんて久しぶり!」
消え去るどころか確定か、寺島は黄昏た。
「鈴木さん!路子さんって!俺に言ってくれれば俺が持って来たのに。」
寺島が職質した覚えがある白い髪をした純広が鈴木から盆を奪い、それどころかいつもの克己の役目を奪ったという風に鈴木を伴って宴席に戻って行った。
寺島は道成寺の息子となっている当の克己を見返すと、彼は女性陣に笑顔を振りまく純広と遊里に苦々しい眼つきを向けているが、彼自身はがっちりと道成寺と寺島の上司に囲まれていた。
「可哀想に。」
「お帰りなさい。寺島さん。」
寺島は後ろでかかった最愛の人の声に、びくりと体を震わせた。
それから、お帰り、と呼びかけられた幸せを噛みしめながら振り返った。
上目使いではにかんだ表情という、寺島が愛してやまない道成寺あぐりはそんな可愛い仕草をしてみせた。
彼は胸が高鳴りながらも、婚約者が彼を苦しめる悪辣さを持っていた事を忘れていた、と思った。
オスカーだった時の彼は自分の刻印を付ける勢いでアルビーナを抱いていたが、今の世界では二人は出会ったばかりの男と女だ。
それも今の彼女は、男との肉体経験など一つもないという、清廉で清純な肉体の持ち主でしかないのである。
寺島はあぐりを目にする度に己の肉体の燃え盛りを押さえねばならない苦行に追いやられるが、それも愛する彼女と今世でやり直しの恋ができる幸せなのだと自分に言い聞かせていた。
しかし言い聞かせてみても、言葉を聞くのは頭と心だけである。
寺島は若い男でしかなく、さらにその肉体は、男女間での肉体関係で受け取ることができる快楽などを知っている体だ。
愛する彼女を抱き締めたそこで彼の身体はその先を望み、そこを踏みとどまりながらも愛する彼女に口づければ、そのまま彼女を食べてしまいたい激情に飲み込まれる。
だからこそ寺島は節度ある態度を通して彼女と付き合って来たのだが、彼女が男との経験を何も知らない清廉だからこそか、寺島を幸福な拷問に落す振る舞いしかしないのである。
今だってもそうだ、と寺島は愛する女性を見返した。
長い黒髪は上半分だけ結んでまとめているが、若い女の子達が「くるりんぱ」と呼んでいる小技、ゆるく結んだ髪を結び目で捩じるというひと手間で、とても可愛らしくて華やかになっている。
何て綺麗なんだ、寺島は純粋にそう思った。
あぐりは自分の外見が普通程度としか思ってない。
それは彼女の母親が誰が見ても切れ長の目元をした和風美人であるが、彼女が似ているのが父親の方であるからだろうと寺島は思っている。
しかし寺島は思うが、日出郎が百六十程度の身長の小柄な男であろうと、日出郎は顔立ちの整った良い男なのだ。
その彼に似たあぐりは、二重がはっきりした大きな目元と雪国らしい白い肌が相まって、寺島には白雪姫ぐらいに見えるのである。
さらに今の髪型のせいか、あぐりの目元は少々つっていた。
そのせいで、美人と言われる所以だろう母親に似た涼やかな流線を描いているように見えた。
さて、美しい恋人を見つめれば、男の視線の行く先など決まっている。
あぐりの唇は瑞々しい桃のようだ、と寺島は感嘆して震えた。
そんな齧りつきたくなる唇を持つ彼女が、寺島が動けばキスを奪えるぐらいの間近に立って、寺島を憧れの目で見つめているのだ。
寺島が理性を総動員していることも知らないで。
「何て無防備な。」




