その四 男の子は女の子に恥じらいや慎みを望む
青年は見てしまったばかりの場面を忘れようと必死だったが、忘れようと思えば思う程、彼の脳裏には数分前の出来事が繰り返し流れるばかりである。
「なんなんだよ。アルビーナの時の恥じらいはどこにいっちゃたんだよ!」
罵ってみたところで、彼の頭の中は、彼が見てしまったばかりの彼の愛する女性の裸体がフラッシュバックするばかりである。
彼女のブラジャーは、アンダーベルトも普通よりも太い肩紐もサテンに艶めく濃い紺色であるが、胸の膨らみを隠すそこは、男性諸氏が夢見るコットンレースで飾られた真っ白なものであった。
そして、アンダーショーツはボクサーショーツのような形であるが、ブラのアンダーベルトとお揃いらしい紺色である。
女の色気を感じさせるどころか、女子高生らしいキッチュな下着であったが、ヴィクトリアン時代に近い世界の価値観が残っている青年には、煽情的すぎる彼女の姿であった。
「はああ。残酷な程に俺を全く意識していないにもしてもさ、もう少し、嗜みとか慎みとか持ってくれよ。アルビーナん時には、そこんとこは十分すぎる程に気を付けてたじゃない?」
「まああ!どうしたの?克己君?」
お盆を持ったあぐりの母が台所から出てきたところだった。
「あ、女将さん。」
克己はあぐりの父、道成寺日出郎を無意識に親父さんと呼びかけてしまった事があり、それを怒られるどころか物凄く気に入られてしまい、今後もそう呼んでくれと望まれたので日出郎をそう呼んでいる。
そしてその流れで、克己はあぐりの母、道成寺桂を女将さんと呼ぶことにもなったのだ。
期待を込めた眼つきをした桂に、姐さんか女将さんの二択を差し出されたならば、克己が選ぶのは後者しか無いだろう。
さて、そんな女将さんの桂であるが、彼女は古い和風建築のこの屋敷の女主人だという風に、豊かな黒髪をゆったりと結った和装姿のたおやかな美女である。
克己であるジャンは、自分の愛する女性とよく似ているこの年上の女性を心配させてはいけないと咄嗟に思い、何でもないという表情を作ろうとした。
しかし、彼女は十八歳の娘を持つ母親である。
十七歳の克己が隠し事をしたことぐらいお見通しだという風に小首を傾げる仕草をし、そしてすぐに何かあったのか察したという顔付になった。
彼女の切れ長の優しそうであった眼差しが、きりりと般若面のような目つきに変わったのである。
やばい、それが克己が一瞬にして思った事である。
「女将さん!な、何でも無いです。」
「何でもあるでしょう?またあのバカ娘が下着姿でふらふらしてたのね。」
「いえ、どうしてわかって。」
自分が思わず返してしまった言葉にはっとした克己であるが、もう遅い。
桂は上品な彼女からは考えられない舌打ちをしたのだ。
ルシファーである克己がびくっと脅えるぐらいに。
「いえ、あの。俺と海が脱衣所にいるのを知らなかっただけですから。」
「知らなくても、誰もいなくても、家の中を下着姿でふらふらしてはいけません。全くあの子は!暑くなると適当にどこでも裸になって!」
「暑くなると?」
「ええ。暑くなると、お父さんとあの子は下着姿でふらふらフラフラ。みっともこっぱずかしい!克己君が来てくれて、お父さんこそ気を付けているって言うのに!どうして女の子のあの子こそ気を付けないのよ!」
あぐりの母の顔付は、ような、ではなく、完全に般若面となっていた。
克己は大慌てであぐりを庇わねばと考えた。
俺が彼女を守らねば、と。
「お、女将さん!え、ええと。俺と海が脱衣所に入ったら、ちょうど服を脱いだばかりのあぐりさんとバッティングしたんです!」
あぐりの母は、ふううと大きく溜息を吐きだした。
そして顔付をいつもの日本画の美女のようなものに変えたが、切れ長の目は嘘を許さないという殺気を放つものである。
「女将さん?」
「で、海君はどうしたのかしら?」
「あ、ああ。一緒に水シャワーを浴びようって。あぐりさんは幼い子供の面倒をよく見る優しい人ですよね。」
「あのばかむすめ~!!海君が肺炎になったらどうするのよ!!」
克己は自分の一言が最後の後押しだったと、自分の失態に両目を瞑った。
だから、応接間に、と桂が言って自分に押し付けたお盆を素直に受け取った。
それから風呂場に駆けて行った桂を見送ると、彼は桂がしようとしていた仕事を受け持つ事にした。
すなわち、応接間の客に茶菓子を出す、だ。
克己はお盆を見下ろし、そこで首を傾げた。
「あれ、いつもの内容と違う。」
赤い漆塗りの盆に乗るのは、コーヒーみたいに濃く入れた麦茶にピンク色の棒付き氷菓子であった。
「え、子供?いやいや、親父さんの友人だったら普通かな。」
克己は応接間に向かって歩きだした。
日出郎の応接間は彼の書斎でもあるのだが、実質は趣味の部屋である。
よって、この部屋には日出郎の客人は招かれるが、仕事関係の真面目な客は迎えられる事は無い。
仕事関係の大事な客は事務所の方の応接間かホテルにて接待されるのである。
それも仕方ないだろうと克己は思った。
日出郎の応接間の本棚に並ぶ蔵書には、会社経営に関するものなど一切なく、片寄った嗜好によって集められたと背表紙で理解せざるを得ないものばかりだ。
和洋折衷である広々とした室内は、床の間には日出郎が好む石の置物や仏像、さらには日本刀が飾られいるだけでなく、恐らく工事して壁に組み込んでしまっただろう大きな金魚水槽だってあるのだ。
水草も生やされて森の景色みたいな六十センチ水槽の中で三匹の手のひらサイズのオランダ獅子頭が泳ぐのは、金魚の世界に癒されるどころか圧巻の一言だ。
応接間の室内の様々を思い浮かべるうちに、克己こそ日出郎が作り出したその部屋がいつの間にか大好きになっていたと気が付き、笑顔になりながら応接間の扉を開けた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お茶を、お茶を。」
そこで克己は言葉を失った。
客人たちは二名いた。
彼らは応接間に置かれたソファなどに座っておらず、床に直接転がっているものが一名と、胡坐をかいて金魚水槽を見入っている者が一名というものだったのだが、克己が声を失ったのは、そんな客人の傍若無人な様ではなかった。
「ロアストクにフィッツェンハーゲンか!何しに来た!」