その三 我が家にて
「ただいま!」
大声をあげながら玄関に飛び込んだのに、私を出迎えるものは誰もいない。
いつもだったらルシファーが中の人という、ジャンだった克己という名の少年が、犬のようにして私を出迎えるはずではないか?
彼は世間の学生が夏休みであるように、彼も夏休み中なのである。
なぜって、彼にはバイト先が無くなった。
我が父が今年の夏休みぐらい遊び倒せと克己に命令した上に、克己のバイト先の全てに手を回してバイトの強制終了をさせたのである。
もちろん柴犬のような克己君は、ちゃんと我が父に喰ってかかったそうだ。
「親父さん。俺は自分の食い扶持ぐらい自分で稼ぎます。何を余計なことをしてくれてんですか!ただ飯喰らいの居候は辛いです。」
「ガキは大人に養われるもんだ。それに、俺はお前がいっぱしな奴だと思ってるからこそ投資したいんだよ。黙って俺のへっぽこ母校の編入試験の勉強だけをしていやがれ。」
我が父がワンマン親父であることに今までの私はかなりの反発もあったが、この行動に関しては、ダディクールと言って褒め称えてあげた。
だって、そこまでしないとジャンの暴走は止まらない。
ジャンでしかない克己君は、来年の私の進学先が東京だろうとどこだろうが付いて来て、その地で働いて生きようと考えていたのである。
そんなストーカー行為で自分の未来を潰してどうするの?
彼に対しては常に母心な私は、彼の為に自分の進路こそ変えた。
東京にある大学では無くて、地元の大学に進むことにしたのだ。
その後は父の会社に入ってもいいし、寺島の妻になって専業主婦しても良いし、専門の研究に没頭してしまうのも良いだろう。
もともと生物系の学部に進むつもりであり、地元の大学でも事足りるのだ。
喪女だったから、東京って二文字に出会いがあるように思えたのよ。
ハハハ。
もう喪女じゃないし。
そう、私には恋人がいるんだもん。
しかし、克己は私の選択にもかなりの怒りを見せた。
「あなたは東京に行くべきです!バツイチ子持ちに人生賭けていいんですか?」
「まだ結婚なんか先の話でしょう?それよかさ、お父さんの母校に克己が通うんなら、半年後は一緒に学校に通えるね。放課後は大学のカフェで一緒にお茶したりとかしない?」
私が再考した進路となる志望大学の隣には、我が父の母校である祥鳳大学付属高校があるのである。
「祥鳳大学付属高はそんなに簡単に編入できると思わないけど。」
克己は謙虚にそう答えたが、今までの抵抗は何だったと思う程に、従順な態度で編入試験を受けてくれた。
さすが柴犬飼い熟練者の私だ。
そんな思い返しをしながら家に上がったが、出迎えがないのは家の中に家人がいないからでしかないと知るだけだった。
「あれ~。」
台所に入ると、昼食の準備もしていない状況が私を出迎えた。
母かお手伝いさんの鈴木さんがいるはずなのにな。
「なんかあったのか?」
私は冷蔵庫へと歩いて行くと、中からピンク色の棒アイスを取り出して封を破いて口に咥えた。
それでそのまま自室へと向かった。
私の部屋の扉が障子戸という事で、間違うことなくそこは和室だが、八畳間のそこは大昔の和洋折衷風の部屋にしつらえられている。
床の間もあるし部屋の壁は砂壁となっているが、床は洋風家具が置けるように畳敷きではなく板張りなのだ。
そこで私の部屋にはベッドもあるし、学習机もあるのだ。
私は事故に遭う前はこの古臭い家も部屋もそんなに好きではなかったが、完全なるヨロッパ貴族のお屋敷に住んでいた記憶があるせいか、今はこの部屋が大好きで堪らない。
この世界に戻って来れた喜びもあるが、適当な所で寝っ転べるという和風建築だけの特権を享受できるからだと思う。
不衛生で堅苦しい世界は大嫌いだ。
「洗わないの前提の重たいドレスも、面倒なコルセットも、鬱陶しい靴下止めも無い世界よ、万歳だわ~!」
私は大声をあげながらシャツを脱いで、スカートを引き下ろした。
そしてブラとパンツ姿のまま片手には着替え、片手には汗で濡れたシャツを持って風呂場へと向かった。
それでもって、風呂場の脱衣所を開けたそこで、いなかったはずの家人と顔を合わすことになったのである。
彼らは今帰って来たばかりなのか、脱衣所の洗面所で手を洗っていた。
海君を抱え上げていたジャンは、一瞬幼子を落としかけたが、さすがと褒めてやりたいぐらいに立ち直りが早かった。
しかし、地毛が薄茶色だったことが納得できるほどに透き通る白い肌をした彼は、私が見つめている中で見る見る間にタコの仲間ぐらいに真っ赤に染めた。
目玉なんて零れ落ちそうに見開いているよ。
どうしよう、と、時間が止まったこの世界、純粋な者が救い手となった。
「あぐりちゃんお帰りです。」
「おお~。お帰り。海君とかっつみ君。そんでお姉さんはシャワー浴びるけど、海君も一緒に浴びるかな?水シャワーだ。冷たいぞ!」
「みずしゃわ~あびう~。」
私は何ごともない足取りで洗濯機の前に行き、汚れたシャツを洗濯機に放り込み、着替えを籠に入れると、克己に向かって手を伸ばした。
何も起きていないって表情で。
「選手交代だ。」
真っ赤になっていたルシファーは、表情を泣きそうに見える顔付に歪めた。
そして私に幼子を手渡すや、一言呟いてから脱衣所を飛び出して行った。
「君はアルビーナとは違う、か。そうだよ。」
私は閉じられた脱衣所の扉に向かって、そう彼に返していた。
同じじゃないから私への失恋が癒されるといいな、と、それは心の中で呟き、自分が彼にしている残酷なことに情けないと思いながら幼児を床に下ろした。
ぽよん。
つくつく。
幼児が私のお腹を突いて喜んでいる。
アルビーナの時のカイは、私にそんな事をしなかった。
私のお腹がアルビーナの時よりも弛んでいる、からであろうか。
「あぐりちゃんはふわふわです~!」
異世界の記憶があるくせに異世界の時のように、おかさん、と私を絶対に呼んでくれない幼児を見返して、そういや、我が家に初めて泊めた日に私が風呂に入れてやったと思い出していた。
「しくったわ。寺島の陰りもそれが原因か!」
オスカーは女性経験の多いらしい寺島の記憶やら、人形のような美しいアルビーナとのいけない記憶を持っている。
私は自分の弛んとしたお腹を見下ろした。
寺島は私に幻滅したのかもしれない。
でもって、別れたいけど言い出せない、そんな葛藤の中にあるのかも?
「明日から腹筋する。」
取りあえず、明日から。
今は取りあえずシャワーだ。
私は下着を脱ぎ棄てた。
幼児も喜んで着ているものを脱ぎ棄てている。
「よし、行くか、カイ!」
「は~い!」
アルビーナじゃない私の方が好きらしい幼児を抱えると、私はガラス戸を開けて洗い場の中へと入った。




