神の右手を持つ男と招かれざる女
コンコン。
オスカーはノックの音にハッとした。
それからこれ以上ノックをされてアルビーナを起こされてはかなわないと、急いでドアへと向かった。
「何だ?」
ドアを開けたそこで、ノックをしていたボーイがびくっと固まった。
アルビーナには絶対に見せる事はない自分の不機嫌な顔に脅えたのだろうと、オスカーは考えながらボーイをさらに睨んだ。
いや、睨んでいて良かった、とすぐに考え直した。
ドアを開けるのでは無かったと、彼は一瞬で後悔したからだ。
ボーイは一人で立っていたのではなく、彼の横に見覚えのある女を引き連れていたのである。
乗合馬車では、常にオスカーの隣に座っていた女。
むやみやたらにオスカーに纏わりつき、アルビーナの鼻が膝に当たったことで反応してしまったオスカーの下半身に触れてきたという、反吐の出そうな女だ。
茶色の髪に茶色の瞳という、何の変哲もない色の組み合わせだが、彼女の目鼻立ちが普通よりも整った外見であるのも事実である。
そんな自分に自信があるからなのか、彼女がオスカーに当たり前のように愛人契約を持ちかけて来た事を彼は思い出した。
「妊娠している奥様の代りに、私があなた様を慰めてさし上げますわよ?」
自分の欲求不満がそこまであからさまに見えるのか、と、彼は自分への情けなさをそのまま女の存在への憤慨に変えていた。
「何か?」
「いえ、あの。奥様の小間使いを案内して来ただけでして。」
「我々には小間使いなどいない。その女はただの無賃乗車だろう。次の駅で警察にでも引き渡せ。」
笑顔も何も見せずに、オスカーは兵隊時代の顔でボーイに言い放った。
ボーイはオスカーと同世代ぐらいだっただろうが、元兵士で前線の経験だってあるオスカーとは場数が違う。
オスカーの剣幕に身を縮めて脅えるばかりとなった。
「は、はい。すいません。」
「あら。言い方が悪かったかも。本当は愛人なの。ねえあなた?」
「貴様は!」
女は早かった。
ついっと身を乗り出すと、オスカーに聞こえるぐらいの声で囁いた。
「警察に行かれて困るのはあなたでしょう?」
オスカーは女を見据えた。
女はしてやったりの微笑を彼に見せた。
「あ、あの。」
「ああ。私はこの女性と少し話し合わねばならないようだ。次の駅までの三等車両の乗車賃はいくらだ?これで足りるか?妻には黙っていて欲しいからな。」
銀貨を一枚ボーイに渡すと、ボーイは逃げる口実にしがみ付くようにして銀貨を握りしめ、頭を下げてからオスカーの前から去っていた。
オスカーは室外へと出ると、扉を閉めて鍵をかけた。
それから彼は女に向けて顎をしゃくった。
女は笑みを深くした。
そしてオスカーが廊下を歩きだすと、彼女はオスカーの後を勝利者の様にして簡単について来た。
しばらく歩いたオスカーは周囲を見回し、人の目が無い事を確認した。
「安心してくださいな。あなたが私を雇って下さるなら、あなたに最高の思いをさせてあげる事はお約束します。私、とっても上手ですのよ?」
「で、雇わなければ?」
「うふ。奥様は魔女でございましょう?魔都での惨劇から、魔人を見かければ誰もが狩るようになったじゃございませんか。大事な奥様を大事に思われるならば、うふふ、私を大事にした方がよろしゅ、う、うう。」
女の首にはオスカーの左手が伸びていた。
片手で喉を掴まれた彼女は声を失った。
脅えたからではなく、彼女は声を出す気力を失ったのだ。
「私こそ魔人だとは思わなかった?間抜けな大男にしか見えなかったか?だがその通りで私は魔人ではない。もっと質が悪い悪鬼の方だ。」
オスカーが女性から手を離した時には、女の艶やかだった髪は色が抜け、張りつめていた肌は弛み皺が刻まれていた。
回復術は己の生命エネルギーを他者に移すという術であるならば、回復士は他者からエネルギーを奪う事も出来るのである。
オスカーは彼女のエネルギーを奪って見せた左手を持ち上げ、彼女に手の平をまざまざと見せつけた。
「苦難の中を歩いている人が出会うのが神の右手であるなら、傲慢なだけの人が出会うのは左手だけですよ。邪と左ってリンクするものですからお気をつけて。」
オスカーはポケットに左手を入れると、ポケットから金貨を一枚取り出した。
それを女の枯れ木のようになった右手に握らせた。
「次の駅で降りろ。警察にタレこむ?どうぞ。死にかけた老人のたわ言など、誰も注意を払う事など無いだろう。」
「ひ、ひい!」
女はオスカーに脅えながら後退り、オスカーは彼女を見返して微笑んだ。
自分のかっての上司が他者にして見せていた様に、今の自分も悪魔に見えるといいなと思いながら。
そして踵を返すと、自分の帰る場所へと足を必死に動かした。
自分は愛する人に嘘ばかりだと情けなく思いながら。
「アルビーナは俺が半分以上の命を彼女に捧げたと思い込んでいる!感謝だけでなく罪悪感をも抱かせて自分に縛り付けようとしているなんて!」
客室に辿り着いた彼は、真っ直ぐに愛する人の元に向かった。
彼がベッドの前に立ったその時、彼が部屋を出て行ったその時と同じ状態で、輝ける彼の想い人は熟睡していた。
ワイン漬けの女。
彼女は自分をそのように評して自嘲するが、オスカーは彼女がバラ色の輝きを纏っている女神にしか見えてはいない。
きめの細かい陶器のような白い肌は、透明感あふれる清らかなもので、誰にも汚せない白のイメージ、アルビナという名前そのものだ。
それなのに、ふっくらとした彼女の桜色の唇は、キスを誘うかのようにして存在している。
彼は眠るアルビーナへと右手を差し伸べた。
最愛の人を悩ます傷口を完全に消し去るために。
否。
つい先ほどの行為で汚れた自分を浄化してもらうがごとく、彼はアルビーナの傷跡がある場所に右の手の平を当てていたのである。
柔らかく温かな彼女。
彼が命を注いだ、彼が助けた、彼を生かす存在。
「真実を知ったら君は俺を唾棄するかな?」




