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逃亡者はあだ名で呼ぼう

 私に手を押し返されたオスカーは、それでも私に手を伸ばそうと頑張った。

 ジャンと違って私の手を撥ね退けてまで意思を通す、そんな事はせずに私の両手に右手を掴まれているままでもあったが。


「いいの。」


「ですが、傷が痛むのでしょう?」


「痛まないし。周囲を見て!」


 私は囁き声だがオスカーを強く諫めた。

 オスカーが私にしようとした事は、自分の右手で私を癒すという行為だ。


 オスカーは術者で、それも、滅多に存在しない回復士だったのである。


 バールがオスカーを神の右手と呼んでいたのは、自分の右腕で信用できる人物という例えではなく、オスカーが回復士であることを嘯いていたのだろう。


 そして、絶滅危惧種に近い回復士の術を、こんな安宿の食堂なんて人目があるところで見せるわけにはいかない。

 オスカーが回復士だって、誰にも知らせるわけにはいかない。


 それはなぜか。


 回復術は回復士の命を消耗する魔術だからである。


 魔術を手にして神の存在から切り離された人間には、神の祝福でもある回復術なんてものは使用不可能な夢の術だ。

 よって、神の祝福が無ければ回復術の力の元は術者の生命エネルギーとなる訳であり、回復士は人に術を使う度に寿命を削ってしまう事になる。


 バールに撃たれた私の腹の銃創は、オスカーの術によって塞がっていて、見た目には傷一つない状態となっている。

 しかしながら、それこそ魔法効果というか、魔法で塞がっているだけの傷なので、縫った傷跡と違ってちょっとした衝撃でパカッと傷口が開く。


 だからオスカーは傷が開いたのかと心配したのだろうが、前述したように術者の命を削る魔法であるならば、私は私への治療なんか二度とさせやしない。

 だから私はオスカーの手を押し返したのである。


「私を心配されていますか?でも、もう少しぐらい大丈夫ですよ。これからまた馬車に乗ることになりますし。」


「いいの。傷は痛んでいないから安心して。それよりも、私の名前を連発する方が危険じゃないの?そっちで頭が痛いだけよ。」


 少々むっとした顔をしたオスカーは、今まで自分が座っていた椅子を私の椅子の方へと動かしてから座った。

 先程までは対面だったが、今は右斜めほんの前、という近さになった。

 そして珍しく不貞腐れたような彼は、珍しく憎たらしい事を言った。


「アルビーナはよくある名前ですよ。」


「赤ワイン漬けの女には似つかわしくない名前じゃないの?」


 自分が間違っていても絶対に認めないジャンと違い、間違っていなくとも頭を下げる男は、すいませんでした、と謝った。

 それから、こっちの胸が痛くなりそうな悲しそうな溜息を吐いた。


「どうなさったの?」


「あの、あああ。俺はあなたを別の名前で呼べません。あなたは俺にはいつだってアルビーナ様でしか無いのです。だから、どうしたらいいのかなって。」


「お前って奴は!」


 本当になんて意固地だろう。

 偽名ぐらいいいじゃない。

 私はアルビーナと呼ばれるよりも、アリスやアメリアの方がいいってのに!


 そしてこれは何度目の言葉の応酬だろう。


 オスカーは、私達が夫婦だという芝居をするべきだと主張したが、一番隠さねばならない本名を偽名にする事には、絶対に、頑として、拒否をするのである。

 意固地な所がジャンを思い出させるが、変な所に拘るのは犬系の人の性質なのかな、と、しゅんとしてしまったオスカーのつむじを見ながら思った。


「わかった。それで、アルビーナとしか思えない私に愛称を付けるとしたら、オスカー、あなたはなんて私を呼んで下さるのかしら?」


 オスカーは顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。

 空色の綺麗な瞳は輝いていて、口元は、あらまあ、はにかんでいる?


「オスカー?」


「ええと、あの。」


 あ、口ごもっている。

 大きい体をきゅっと小さく固くして、なんだか可愛い。


「オスカー?」


「あの、その。ぺ、」


「ぺ?」


 アルビーナのどこにぺがあるのだろう?

 私は耳まで真っ赤になったオスカーを見続けていると、彼は私に見られる事に耐え切れなくなったようにして顔を背けた。


「オスカー?」


 私がそっとオスカーの肩に触れると、彼はびくんと肩を震わせた。

 ナイーブすぎる。


「わかったわ。ごめんなさい。今まで通りで良くってよ。あなたがつけた愛称ならば、あなたも呼びやすいと思ったのだけどって、わあ!」


 オスカーは勢いよく振り向いたばかりか、私を椅子ごと倒す勢いで、いえ、椅子ごと持ち上げる勢いで私の右手を両手で包んだ。


「オスカー?」


「ぺ、ペルレ、と。ペルレと呼んでいいですか?」


 真っ赤になった大男が差し出して来た名前は、愛称どころじゃなかった。

 英語だったらハニ~だろう、ルビータでは恋人や妻を呼び掛ける時に使うという、真珠ペルレという単語だったのだ。


 そして、勢いが良かった男はぱっと私の手から自分の手を離すと、今のは無かったことにしてくださいと言う風に再び私から顔を下げた。


 真っ赤になった耳と、落ち込んだ時に頭を下げる癖で必ず見せるつむじを、しっかりと私に見せつけてくるなんて!


 だけど、いいわよって簡単に言えない呼び名でしょう?

 ジャンでさえそんな風に呼んでくれなかった、のに!


「すいません。妻、いいえ、恋人がいたら一度ぐらいはそんな風に呼んでみたくて。ハハハ。私には一生無いだろう夢なんです。」


 胸が痛んだ。

 私のせいで彼が死ぬことになったら、確かに彼には一生無いだろう夢だ。


「よくってよ。ハーゼさん。」


 ぷすっと、オスカーは笑い出した。

 くすくす笑いながら彼は顔をあげ、光栄です、なんて本気で嬉しそうにはにかんだ笑顔を見せつけながら言った。


「これで名前問題は解決しましたね。ペルレ。」


 何ていい笑顔をしやがるんだ。

 だけどいいの?

 確かにハーゼは男女関係なく恋人にかける言葉だけど、男の人なのにうさぎちゃんって呼ばれて嬉しいものなの?


 そこで宿の女中がオスカーにツイッとすり寄り、オスカーに小声で囁いた。

 オスカーは彼女にありがとうと言いながら、彼女にチップを手渡した。

 女中は手に握った硬貨が気前の良すぎるものだったらしく、とっても嬉しそうにオスカーに微笑んで、足取り軽く私達の前から去って行った。


「馬車がそろそろ到着するようです。さあ、馬車まで抱かせてください。ペルレ。」


 オスカーは私に両腕を差し出した。

 彼は私を本当に大事過ぎる程に大事にしている。

 私は目覚めてから歩いた事があるかしら?

 それぐらいに、常に彼に介助されているのだ。


 私はオスカーに両腕を差し出して、当り前のように彼の首に両腕をかけた。

 オスカーは慣れた手つきで私を椅子から抱き上げた。

 温かくゆるぎない体に抱えられる事は、それだけで私に安心を与え、私の空洞となった心への慰めになった。


 私はヤン・ヘルツォークに復讐をする。

 そのために今は逃げて生き延びねばならないが、この人をジャンの様に死なせていいんだろうか。

 私の復讐は善など何もない、ジャンの仇討ちでしかないのに。

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