別たれた道
私とジャンが本当の恋人同士になった朝、ジャンはとてつもなく優しくて甘い恋人になった。
いえ、以前から彼は私に優しいわ。
でも、いつもと違っていた。
椅子に座らせる時は私を抱き上げて椅子に座らせるし、今なんて、私のトーストにバターとジャムを塗っているのよ。
朝食のメニューがスクランブルエッグだったけれど、もし白身魚だったとしたら、彼は私の為に魚の骨を綺麗に抜いてくれるだろう。
「君はマーマレードが一番好きだよね。」
「ええ、そうよ。ありがとう。それで、一生のお願いがあるの。」
まあ、目尻ってこんなに垂れるもの?
だらしないぐらいに蕩け顔をしたジャンは、嬉しそうに聞き返してくれた。
「なんだい?何でも聞くよ。」
「今日中に領地に戻っていただける?領地の領民を守る人が必要だわ。」
それまで甘い表情を見せて、私の為に私のパンにジャムを塗ったりしていたジャンは、当たり前だが、目を三角にさせて怒りだしてきた。
それどころか、前夜の行為が愛からのものでは無かったと勝手に思い込み、私を裏切り者の如く責めて来たのだ。
「それが目的か!君を与えれば俺は何でも君の言う通りにすると考えたか!」
「私を与えなくても、あなたは何でも言う事を聞いてくれるわ!私はあなたと離れ離れになる前に、あなたという思い出が欲しかっただけよ!」
「離れ離れってどういうことだ!俺を捨てる前の駄賃だったというのか!」
「違うわよ!そんな風に言って昨夜のことを台無しにしないで!どうして私達の領地を守るって言ってくれないのよ!」
「台無しにしたのは君こそだろう!それに俺は領地なんてどうでもいい!俺はお前の為だけに議会やらなんやらをこなしていただけだ!」
「じゃあ!私の為に領地も守ってよ!」
「お前が一緒に帰るならな!」
「わ~お。議員までしている癖に、世間様を知らないって困るねえ。」
私達は一瞬で口を閉じ、聞きなれた嫌な奴の声がした方を振り返った。
食事室の入り口にバールが立っており、彼の後ろにはオスカーがうんざりした顔つきで控えていた。
「何を勝手に入ってきている。俺は許可した覚えはない。」
「わお。侯爵然としてきたね、ボクは。大人になったからかな?」
「貴様!」
柴犬は簡単に激高する。
そして、柴犬のその習性を知っている野良猫は、鎖に繋がれた柴犬を揶揄って遊ぶこともある。
目の前のバールこそ猫科の肉食獣系だからか、柴犬ジャンを揶揄った猫のように、ジャンの揶揄い方はよくわかっているようである。
また、習性を知っているならば、説得だってお手の物だろう。
バールは立ち聞いていた私達の痴話げんかの内容、ジャンが一人で領地に戻るという私の申し出に関して、ジャンならば絶対に断われない言葉を唱えて見せたのである。
「では、旦那様。君が奥様を愛していなさると言うならば、君が彼女の為に逃げ道を確保してやらないでどうする?一緒に領地に帰る?今は駄目だ。アルビーナ様には監視の目がある。彼女が逃げようと動けば、その場でよってたかってのなぶり殺しに遭うだろう。アルビーナ様は実に評判が悪い。密告者が良心の呵責も覚えないというお方でおわす!」
「貴様がアルビーナに処刑の号令なんかさせるから!」
「それは違う。それも王命だ。そしてアルビーナ様が号令をかけられなければ、次の週の処刑される囚人はアルビーナ様になっていた。」
そこまで言われてジャンが抵抗できるはずは無いだろう。
ジャンは私だけの為に生きると誓ってくれたのだ。
それでも、かなりの葛藤をしてくれていた。
ジャンは唇が裂けるぐらいに噛みしめていたのだ。
「安心しろ。君の護衛は君がよく知っている奴を付ける。なあ、ウッツ君。」
バールの後ろからオスカーは一歩前に出た。
すでに旅装束をしており、彼はジャンに向けて恭しく頭を下げた。
「俺は一人で行ける。」
「いや。連れていけ。ウッツは私の大事な右手だ。ああ神様。私が苦難の中を歩いている時にも、敵の怒りに遭っている時にも、私に命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いくださいませ。そんな大事な右手なんだよ?」
はふっ。
私は息を吐いていた。
だってオスカーは、私を守るために銃を抜こうとしたじゃないの。
向けようとしたのは、バール、お前に、じゃないの。
私の目の表情を読んだのか、バールはあくどいと言える笑みを浮かべた。
そしてジャンは、納得できないながらも納得した。
「分かった。だが俺はアルビーナを見ている。何かがあれば、俺は絶対に領地を捨てて戻って来る。」
「それこそ君だよ。アルビーナ様に必要なのは、いざという時の外部からの助っ人だ。そして、アルビーナ様の心を死なせないように、彼女が無体な殺しをさせられないように、ウッツと一緒に動いて助けられる人間は助けて欲しい。」
ジャンは私の前に歩いてくると、騎士が礼をするように膝を折った。
それから私に両手を捧げた。
私は彼の手に両手を置いた。
ジャンは私を見上げ、堪えきれないものを堪えている表情を向けた。
私こそ崩壊してしまいそうだ。
「妻よ。私達は必ず再会する。」
再会、したいわ。
あなたと一緒に歩き続けたいわ。
私は鼻を啜っていた。
アルビーナともあろうものが。
「アルビーナ?」
「わ、わ私は、あなたの妻だわ。し、死が、ふ、ふた、二人を別つまで!」
「ああ!」
ジャンは私の両手をぎゅうと握り、自分の額にそのまま押し付けた。
私達は動くに動けなくなった。
愛している。
愛されている。
でもここで終わりなのだ。
「ヤン。私達は急いで発ちましょう。包囲網を敷かれる前にこちらこそ陣と穴を作っておくのです。アルビーナ様の為に。」
静かな説得の声をかけたのは、オスカーだった。
「わかっている!分かっているよ!だけど俺にはアルビーナだけなんだ!」
ジャンは言い返し、だが、それから数秒私の手を額にさらに押し付けた後、彼は私の手を放した。
彼は私を見上げていた。
最後の風景を心に留めるようにして眺めていた。
私の右目から涙が一粒零れ、するとジャンはようやく立ち上がった。
私はジャンの腕の中にいた。
私の腕の中にもジャンがいた。
昨夜知った温かな体がそこにあった。
「行ってくる。必ず君を迎えに来る。」
言うべきじゃないのに、私の口は勝手に言葉を吐いていた。
「あなたを待っているわ。」
私の口は封じられた。
マウストウマウスではないキスをジャンは与えてくれたが、私の一生の思い出にもなれるような優しいキスだった。




