第九十六話
俺は笹森さんを見た。
俺が今までの人生で見たあらゆるものの中で一番儚く見えた。
その儚さが自分のものに思えた。
「貴方と会ってから本当に自分は何もしてこなかったんだと気づきました。
生きてすらいなかったんだと。そりゃそうですよね。何も自分で考えてこなかったんですから」
「そんなことないですよ・・・」
「大学を出て国立科学研究所に入って何もすることがないことに気づきました。仕事はヒュドラーを倒すことより、ヒュドラーの解剖ばかりでした。それだけなら良かったんですが、人間の解剖もあります。
ヒュドラー感染症とは関係ない虐待死による子供の死体の解剖が俺は嫌で嫌でたまりませんでした。
本来一番守って貰えるはずの親にこんな目にあわされたのかと思うと。
死体からは死の前どんなことをされたのかはわかってもその子が何を思っていたのかはわかりません。
でも想像を絶する苦しみだったはずです。それくらい想像力のない俺でもわかります。
父のように死ぬことはなくなりましたけど、この先どうしていいのかわからない時、あの日ケーキ屋に寄って貴方を見つけました」
あの日は三歳の男の子と二歳の女の子と二十三歳と十七歳の女性の死体を解剖した。
惨たらしく強制的に終わらせられた人生に何の目的もなくこの先何をしたらいいかわからずただ生きている自分が苦しくなったあの日。
帰り道に優しい灯りが目に入りドアを開いた。
天使がいた。
「貴方を知って当面のやりたいことが決まりました。貴方を見たい。貴方の声を聞きたいと。仕事も平気になりました。やるしかないんだから頑張ろうって思えたんです」
笹森さんは俺のスウェットをぎゅううと音がしそうなくらい握りしめた。
俺は何処にも行ったりしないのに。
笹森さんのいないとこなんか絶対。
「竹宮さん。何もすることがないってことは、何をしてもいいってことですよ。選択肢は無限大です」
「そうでしょうか」
「竹宮さんは誰とだって出逢えるのに本当に私でいいんですか?」
「笹森さんがいいですよ」
笹森さんはスケッチブックを手に取ると俺の描いた下手な布オバケの横に掃除機をかける布オバケを書き、洗濯物を干す布オバケをその横に書いた。
記憶にある父そのものだった。
父には音がなかった。
でも笹森さんが描いた絵からは足音が聞こえてきそうだった。
お帰りと言ってくれそうだった。
穏やかで静かな時間がそこにはあった。
それは笹森さんの言うかけがえのない人生そのものだった。
父は生きていた。
母はお父さんのようになりたくないでしょうと言ったけれど、それは俺が勉強したくないとごねた時だけだ。
毎年父の誕生日には父が好きだと言うカキフライを山盛り揚げ、ニッキ餅を必ず買ってきた。
テレビはいつも父が見たがったので野球中継を見ていて、父の死後は一切見なくなった。
母はいつも堂々としていた。
休みの日には連れ立って買い物に行ったり寺に行った。
お父さんのようになりたくないでしょうと言ったのは三十五歳でなんか死にたくないでしょうと言うことだ。
母は父を愛していたし、父の死を望んでなんかいなかった。
笹森さんがクリスマスのサンタの帽子に付け髭をしてプレゼントを抱えた布オバケを俺に見せると俺は視界が滲むのを感じ、目の前の小さな体を引き寄せた。




