第三十三話
「あの、笹森、さん」
「はい・・・」
「あの、その、千尋さんって、いい、お名前です、ね」
「そう、ですか・・・」
「はい、綺麗な名前です、ね・・・」
「ありがとうございます・・・」
違うだろ。
違う、嫌いい名前だけど。
本当に綺麗でよく似合ってると思うけど。
そうじゃない。
だって名前で好きになったわけじゃない。
寧ろ名前なんかなくたって好きだし。
「あの、千尋だからちーちゃんだったんですね、やっとわかりました」
「え?」
そうだ。
謎が解けた。
これが解けずに死んでたら死んでも死にきれなかっただろう。
もう答えを知った。
そんな難問じゃないはずなのに。
唯名前を知るのがこんなにも難しいなんて。
そりゃそうだ。
ケーキ屋の会員カードだって名前で作らない。
ケーキの予約も会員番号でする。
自ら名前を名乗らない限り、聞かない限り、永遠に接点のない人間の名前を知ることはできない。
「すみません。あの、お店でお婆さんに連れられた小さな女の子がそう呼んでいたので」
「・・・近所の子なんです。生まれた時から知ってて・・・」
「そうですか」
「はい・・・」
笹森さんは少し笑った。
力なく、へにゃっと音のするような、届けるつもりもないような笑顔で。
その顔を一番近くで何度でも見たいと思った。
大画面テレビじゃなく、こうして向かい合って。
「あの、笹森さん」
「はい」
「話戻すんですけど、俺と付き合ってください」
「はい」
「あの、俺本当に貴方のことが好きなんです。もう、こう何て言ったらいいのか、貴方に会うために生まれてきたって言うか、貴方に会うために今日まで生きていたっていうか、貴方がいる限り生きていたいっていうか」
「はい」
「今までこんなこと考えたこともなかったんですけど、貴方に会ってから死ぬの嫌だなって、貴方に会えなくなるのが嫌って言うか、貴方に何も伝えずに死ぬの嫌だなって、後悔するだろうなって、でもこうして貴方にちゃんと伝えることができて、貴方の名前も知ることができて、もう後悔はないなって、未練ないなって、いつでも死ねるかなって、思ってて」
「死なないでください」
「え?」
「死なないでください、だって、せっかく、せっかく、お付き合い、できるのに・・・」
「え?」
「え?じゃないですよ。もう」
笹森さんは右手で右の頬にかかった黒髪を右耳にかけた。
初めて見る仕草に機械のはずの心臓がどくりと言った気がした。
「竹宮さん」
「はい」
笹森千尋さんはもう泣いていたことなどないかのように、夜を忘れるような笑顔を見せた。
雪を操っているみたいだと思った。
雪だけじゃない、この夜を支配していた。
小さな姿で君臨していた。
目が眩みそうなほどの淡くて力強い静かな海のような輝きで。
「私も貴方のことが好きです」




