第三十二話
ちーちゃんさんは俺から視線を完全に逸らし、黙ったまま身動き一つ取ろうとしなかった。
まるで彼女に呼応するかのように雪は音もなく降り注いだ。
俺は何か言って欲しいけど、次に来る彼女の言葉が答えならば永遠に聞きたくないように思えた。
「私」
漸く彼女は口を開いた。
雪の音にかき消されたりしないのに、その声は今日一番大きく聞こえ、彼女の強い意思が込められている様に感じられ、俺は身構えた。
「貴方の、お名前も、まだ知らないんですが・・・」
最後の方は消え入りそうな声だった。
ちーちゃんさんは目に涙を浮かべていた。
雪のせいにはできない。
雪は彼女を守る様に彼女にだけは容赦があった。
俺は彼女が俺の名前を聞いているのだと気づいた。
「すみません、あの、たけみやよしのです。竹は竹藪の竹。宮はお宮さんの宮。吉野は奈良県の吉野山の吉野です」
こんな説明で良かったのだろうか。
漢字の説明はこれでいいのか。
ちーちゃんさんは俺のことを少し見てまた視線を逸らし、トートバックのショルダー部分をこれでもかと言うほど握りしめた。
「ささもりちひろ、です。笹は熊笹の笹。森は森林の森。ちひろは千に尋ねるです」
言い切るとちーちゃんさんは俺の方をじっと見た。
相変わらず両手はトートバックのショルダー部分を握りしめていたけど。
黒い瞳は潤んで今にも涙が零れそうになっていたけれど。
俺を見ていた。
「笹森、千尋、さん」
俺はその名を声に出した。
その名が現実になる様に。
その名に意味を持たせるように。
その名に命を吹き込み体に定着させるように。
「私も、貴方が、お店に来るの、毎日楽しみにしてました・・・」
彼女はまた俺から視線を逸らした。
俯いて小さな声で、でもちゃんと伝えようとしてくれた。
「だから、一か月来て下さらなかったから」
彼女の両眼から涙が零れだした。
「もう、会えないのかなって思って・・・」
俺は女の子に泣かれたことなど勿論ない。
こういう時どうすればいいのかまるで分らない。
「あの、さ、さもりさん」
「はい・・・」
「その、あの、すみません」
「・・・どうして謝るんですか?」
「すみません、何て言っていいのかわからなくて」
「私もです・・・」
笹森さんは俺が店に来るのを楽しみにしていたと言ってくれた。
そうだ、笹森さんだ。
やっと名前を知れた。
これからはちーちゃんさんじゃない。
笹森千尋さん。
笹森千尋っていうんだ。
俺が恋した名前も知らない女の子は笹森千尋と言う。
その名で今日まで生きてきたんだ。




