◆0008 蘇芳 若月 萌葱
「蘇芳、見て見て!」
紗矢は楽しそうだった。
蘇芳は楽しくなかった。
「飯田さん、じゃあ今日は一度も見回りに行ってないんですね」
「蘇芳、見てってば」
「ええ。あっ、それは昼食のオカズで――」
「ちょっとだけ。味見」
「ああ、それはダメです」
「どうしてよぉ」
「・・・・・・紗矢」
「ねぇ蘇芳、これ案外おいしいわよ」
「紗矢様、食べないでください・・・」
俺、頭痛い。
こいつ悠基より厄介だぜ。
「頼む紗矢、ちょっと出ててくれよ。俺大事な話しが」
「まま、蘇芳もおひとつ」
「紗矢」
「わかったわよ。本当恐い顔しちゃって、ねぇそう思わない?」
話を振られた飯田は苦笑して俺を見た。
「ちぇ~」
舌打ちして紗矢は口を尖らせたまま、やっとキッチンを出て行った。
紗矢がいなくなるとキッチンは急に静かになり、ドアを開け放したままの続き部屋の方から金井が野菜を洗う水音がしていた。
「あの、飯田さん」
改まると飯田は緊張したように目をパチパチと瞬かせた。
「今日は見回りに行ってないと言いましたね。では、物置の鍵を誰かに貸したということは?」
「いいえ。誰にも貸してません。ですが犬小屋のダイヤル錠でしたら、多分屋敷の者ならみんなナンバーを知っていると思いますよ」
つまり、外部の人間なら知らないってことじゃないのか?
俺はふと思いついて嫌な気分になった。
「そっか。うん、ありがとう。じゃあ物置の鍵貸してもらえるかな?」
「はい」
「鍵はこれひとつしかないの?」
物置小屋の鍵を手に俺が訊ねると、飯田は首を振った。
「いえ、仁様が持ってらっしゃいます」
「親父か」
とにかく鍵を貸してもらい、俺は紗矢と物置小屋に戻った。
私は大祖父様のことを調べるため、再度一階の南側の部屋へ行き、彼女に会ってしまった。
開け放された扉から鉄錆びのような生々しい匂いがする。
私が入ると、彼女は私に背を向ける格好で立っていた。
お嬢には訊かなかったが、私はこの方が昨日屋敷に着いた時点からいないのを知っていたし、不思議にも思っていた。
お嬢と血の繋がりがあるだけあって、彼女は聡明でしっかりとした女性だ。最近婚約もしたらしい。
しかし、その反面彼女は情に脆く、東雲姉弟のまとめ役でもある。
東雲瑠璃、歳は確か今年二十五だったはずだ。
「瑠璃様」
彼女がこちらを向くのを待って、私は続けた。
「御久しぶりです。御変わりないようで」
「若月?」
彼女は瞬時に険しい表情になり、
「何しに来たの?」
血の部屋をバックに押し殺した声でそう言った。
悪夢の中の光景のように現実感が感じられない。
「萌葱様に呼ばれて来ました」
お嬢に騙されたとは言えない。
瑠璃は私の脇を通り、部屋を出ていく。
去り際に、彼女は囁いた。
「お互い逢いたくなかったわね。」
そうだ、私はこの方に会いたくなかった。
しかし会ってしまうと、もうふっきれている自分に気づいた。
五年前、瑠璃が私を諦めたくないと言ってくれた時、私は既に疲れ切っていた。
隠し続けなければならないことや、時にはつかなければならない嘘。そして、癒されない感情。
私の内から出た、それらへの嫌悪感は彼女に向かった。そして一方的に傷つけた。
「若月に会ったわ。萌葱、どういう事なの?」
瑠璃はソファに横たわった自分の妹を蹴飛ばした。
「痛いっ! 何するの」
腕を組んだまま、微動だにせず瑠璃は言った。
「痛い? 私達はもっと痛かったわ。」
萌葱がソファから身体をゆっくり起こす。
どんな言い方をしようと、妹にこの苦しみが伝わらないことは瑠璃も知っている。
それでも言わずにいられなかった。
彼女は会ってしまったのだから。
もう一生会わないと誓った人に、会ってしまったのだから。
「瑠璃姉様が痛いなんて可笑しいわ。だって、瑠璃姉様はもう婚約者がいるんだもの」
「過去に何かがあった人と会うのは何年経ってもつらいわよ。萌葱、出て行ったはずのあの人がどうしてここにいるの、説明して」
「説明も何も、あたしが若月に会いたくて呼んだ、それだけよ。あたしの客人よ。文句ないでしょう」
「・・・・・・わかったわ。萌葱の邪魔はしない。そのかわり私にあの人を近づけないで」
ソファの陰に顔を入れて、萌葱は隠れてニンマリした。
「はぁい」
「まったく」
空気が緩和していく。
瑠璃も萌葱の気持ちは知っていた。
妹はずっと彼を待っていたのだ。しかし彼は来ない。
呼んだぐらいで彼が屋敷へ来たとは思えない。萌葱は彼に嘘でもついて呼び寄せ、もう帰さないつもりだろう。
「萌葱はあの部屋を見たの?」
あの部屋、とはもちろん大祖父の部屋のことだ。
「うん」
「そう、それでこんな所で寝転んでるなんてらしくないわね」
「だって・・・・・・」
瑠璃もあの部屋を見た時、ショックで倒れそうになったが、突然彼が現れたせいでそんな気分もどこかに吹き飛んでしまった。
「蘇芳は帰ってないの?」
「帰ってる。お友達と屋敷の中にいると思う」
「へぇ、かっこいい?」
瑠璃の記憶には蘇芳の友達は数え切れない程いる。小学校、中学校、高校と蘇芳には友達が溢れんばかりにいたからだ。
多分、姉弟妹の中で一番人当たりがいいのが蘇芳なのだろう。
「かっこいい、かなぁ。わかんない」
「何よ、見てないみたいに」
萌葱が笑ってごまかす。
若月に気を取られていて、兄の友達にまで気がまわらなかったのだ。
そういえば、吐いた時、大きな手のひらが背中を擦ってくれていた。あれがそうだろう。
「いいわ。今から蘇芳に挨拶してくるついでに、そのお友達とやらを観察してくるから」
瑠璃が言うと、呆れた顔で萌葱は返した。
「婚約者がいるくせに」
「あら、観賞だけなら別腹でしょ。あんたもその内わかるようになるわよ」
「わかりたくない」
すっかり気分を浮上させた瑠璃は、楽しそうにいい男を探しに出かけた。
「あたしは一人いればいいもの。一人と深くわかりあえたらいい」
萌葱は手近にあったクッションを胸に抱きしめて呟く。
あんな人と若月が付き合っていたなんて信じられない。
二人を会わせるつもりは別になかった。二人が偶然、勝手に会ってしまったのだ。
しかし、よく考えればわかるはずのことだった。
ここは萌葱の屋敷ではないのだから。




