◆0006 蘇芳
緑に囲まれた屋敷は、人家から離れた高台に寂しく建っている。
四、五十年前までは村と呼ばれていた過疎の田舎町を居丈高に見下ろしている。
人を寄せつけない屋敷は、まるで東雲司郎の人格そのものだ。
爺さんが死んだ五年前も俺はここに居た。
東雲司郎という人物がいてもいなくても事件は起こる。
この屋敷が、いや、東雲司郎と東雲仁の懐が潤う、それだけのためにどれだけの恨みを買ってきたのかなんて想像するだけ無駄だ。もう返済不可能なほど膨れ上がっているはず。
蘇芳は庭の芝生に転がったまま空を見つめた。
薄い白雲が広く全体を覆い、ところどころ切れ間から青空が覗いている。
この地方は年に二、三度しか雪は降らない。だから昔は雪が降ると大騒ぎして、姉や妹と遊んだが、今日の天気は雪を連れて来そうになかった。気温が低い割に風もない。
勢いで出てきてしまったせいで、コートもジャンパーも着ていなかった。風がセーターの編み目を通り抜けていく。
だからここには帰って来たくなかったんだ。
途切れ途切れに考えながら、静かになった屋敷から意識を外す。先ほどまで東雲仁の怒声がしていたが、今は静かだ。
もうそろそろ悠基も起きただろう。コーヒーを取りに行くと言ってから随分経つ。だが、身体は屋敷を拒むがごとく動こうとしないので、蘇芳はもうしばらくここにいることにした。
ここから屋敷は見えないが、それは木々に遮られているからで、実際に距離にすれば十mも離れていない。見つかりにくい場所なので、子供の頃からよくここに隠れていた。
あいつを連れて来なきゃ良かった。巻き込んじまったな。
寝転んだ視線の上に椿の葉が青々としている。あの真っ赤な血生臭い部屋とは対照的だ。
蘇芳は固く眼を閉じた。
これがただの推理小説なら、さっさと最後のページに跳べるのに。
手入れの行き届いた芝生を背に、蘇芳が心の中で呼んだ名はもうここにいない人のものだった。
「蘇芳、ここにいたのか」
上から降ってきた声に俺は手で目を押さえたまま、
「ああ」
と応えた。
隣りに座ったらしく、次の声は先のより近かった。
「見たのか?」
なんでこの場所に居ることがバレたんだ? と余所事を考えながら返事をする。
「ああ」
ということは悠基もアレを見たらしい。
「・・・・・・泣いてるのか?」
「だ、誰がっ」
俺は目を開けて悠基を睨んだが、上手くいかなかった。眩しくて目を細めたままだったからだ。
「兄妹揃ってゲロゲロしてんのかと思ったぜ」
どういう意味だ?
「俺があんなもんで吐くわけないだろ、って萌葱?」
「ゲロってたぜ」
「見たのか」
すっかり萌葱のことを忘れていた。あの好奇心の固まりが見ないわけなかった。
「ああ、昨日あんまし食ってなかったみたいだな。量的には少し吐いただけだ」
「俺が言ったのは萌葱があの部屋を見たのかってことだ。萌葱の吐いたもんなんか訊いてないんだよ」
「ふん、教えてやったのに」
いまいちこいつって状況を理解してないよな。
「それよりアレって何のやつだろうな」
疑問に思っていたことを訊いてみる。
「アレ?」
「あのスプラッタなやつ」
身体を起こして座り直すと、悠基の顔がすぐ真横にきたので、少し離れる。
俺の疑問に悠基はぼりぼりと頭を掻きながら応えた。
「犬か猫、もしかしたら他の小動物ってとこだろう。まぁ人様の物じゃないぜ」
犬・・・・・・、そうか。
「犬なら屋敷のドーベルマンがいるけど、あとシベリアン・ハスキーとか」
座っていても仕方ないので、俺達は犬小屋に行ってみることにした。
屋敷には六頭の番犬と、萌葱の飼っているシェトランドなんとかという計七頭がいたはずだ。俺がいない間に増減しているかもしれないが――――。
「おい、あれ」
悠基が指差すまでもなく、俺にも見えた。犬小屋には既に人が集まっていた。
中年の男性が二人、若い女性が一人。
女性は屋敷の女中らしく、青い制服に白いエプロンをしている。男の方は、一人は萌葱の運転手で、酒井という名だったと思う。もう一人は俺が生まれる前から働いてくれている篠山という庭師だ。すっかり黒いところがなくなった白髪の篠山は、首元のきつそうなグレイの作業服を着ていた。
「ああ、坊ちゃん。見て下さいよ、ひでぇことするぜ」
酒井が顎をしゃくって示す。
「うわっ!」
グロいのはもう勘弁してくれ、そう言いたくなった。
七頭の犬達がいたはずの檻に、丸い物が転がっていた。
眼の玉が七頭分。十四個。大体同じ大きさのものが落ちていた。神経を引き千切ったのか、眼には管のようなものが付いている。
ゲロを吐くどころか、思わず目を背けるが、頭がくらくらした。後ろに倒れそうになるのを悠基が片腕で止めた。
「おい、いっちまうなよ」
冗談になってねぇ、俺は目に焼き付いた光景を振り払った。
「最初にこれを見つけた人は?」
悠基の問いに一人が反応した。
「私です。今日の散歩当番だったので来てみたら、こんなことに・・・・・・」
まだ萌葱より若そうな女中は檻から顔を逸らしたまま、声を詰まらせた。
「ふん」
鼻息で納得し、悠基はすっと檻の中に入った。
七頭もの犬を入れられる檻は、人が入っても余裕でスペースが余っている。ただ、背の高い悠基には屋根が低すぎるようだが。
檻の周囲は頑丈そうな鉄格子にもかかわらず、鍵は数字四桁を合わせるちゃちなダイヤル錠だった。
パッと見た感じでは無理矢理開けた形跡はなく、数字を合わせて開けたようだ。
しかし、七頭もの犬を吠え声ひとつたてさせないで殺すことは、不可能じゃないだろうか。
犯人が屋敷の者じゃないとしたらなおさらだ。
「探せば体の方も見つかるかもな」
俺の思考に割り込むように悠基が言った。
「体って、抜け殻になってんじゃないのか?」
「多分な」
想像するだけでも気持ちが悪い。
檻の中の悠基は身体を屈めた姿勢でうろついている。
外で立ち尽くしている俺を含めた四人は、黙ってそれを見ていた。
しばらくして悠基は出てくると、
「この屋敷は建物っていうと、屋敷以外にないのか?」
と誰にともなく訊ねた。
「いえ、お庭の奥に物置があります。ですが夏以外は常時鍵がかかっております」
篠山がいつも通り律義な口調で応えると、それに付け足して酒井が言った。
「毎日鍵の見回りも当番でやってるしな」
「そこの鍵はダイヤル錠じゃないのか?」
「ああ。そっちは鍵がねぇと開けらんねぇよ」
「とにかく行ってみるか」
悠基は物置に行くつもりらしい。俺は仕方なく案内してやる。酒井もなぜか付いてきたが、女中と篠山は犬の件を親父に知らせに戻って行く。
俺は屋敷から遠去かりつつ、この事件がさらに大きくならないことを願い始めていた。
物置小屋には鍵が掛かっていた。
当たり前と云えば当たり前だろう。そうそう簡単にはいかないってことだ。
悠基は引き戸を前に突っ立っていたが、鍵穴の前に身を屈めるとそのまま動かなくなった。
俺は悠基がどんなに常軌を逸脱した人間かをよく知っているので、こういうとき余計なことを言わないで静かにしていられるが、酒井は知らない。
「何かわかるのか?」
「・・・・・・」
「鍵穴に何か付いてるとか?」
「・・・・・・」
「ああ、指紋か?」
「・・・・・・」
「おい、教えろよ」
すっと悠基は鍵穴から目を離し、腰を曲げたまま酒井を見上げた。
恐ろしい形相で酒井を睨むのが俺からも見えた。まるで殺人犯の顔だ。
酒井は萎縮して後ずさりし、俺の横に並んだ。
「あいつが真剣に何かを考え始めると、邪魔しちゃダメなんですよ。相手がヤのつく人でも容赦ないですからね」
「なんというか・・・・・・、坊ちゃんの友達じゃなかったら近づきたくないタイプだな」
「坊ちゃんはやめろって」
俺が顔をしかめていると、悠基がやっと鍵穴から目を離して言った。
「ここの鍵を持ってますか?」
「いやぁ、屋敷に行かなきゃないよ」
「ふん、じゃあ蘇芳取って来い」
「俺?」
役には立ちたいがこんなのは嫌だ。
しかし俺は屋敷に鍵を取りに行くことにした。ついでに萌葱の具合を見ようと思い立ったのだ。
屋敷の二階、書庫室に並ぶ本棚の奥の奥。
もう本屋でも見かけない黴臭い本が並び、幾つかは背表紙が剥がれていたり、分解してしまっているものもある。
その中から一冊を選び出し、椅子に腰掛ける白い影。
長い睫が伏せぎみに瞬かれ、本を開くことなく、窓の外、木々の枝葉の隙間からかすかに覗く物置小屋に意識が向けられる。
「探偵気取りは身を危うくさせるだけ」
どこか楽しげに囁く声も書庫室の本たちに吸い取られ、後には何にも残らない。




